自我偈とは?「自我得仏来」から読む、久遠の仏の願い

「じがとくぶつらい」という読経の声。経本を見ると「自我得仏来」とあり、普段の会話にも出てくる「自我」の二文字が目に留まります。

自我偈(じがげ)は、『法華経』の如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第十六、その後半の偈文を指す呼び名です。ここで語っている「我」は仏です。遠い過去から、いま教えを聞く衆生へ。仏がなぜ法を説き続けるのかが、一句ずつ語られていきます。

「自我」は、最初の句についた目印

正法寺の解説は、自我偈を、寿量品の教えを五文字ずつの詩句で重ねて説く部分と説明しています。「自我得仏来」で始まるので、自我偈という名があります。最初の句は、「我、仏を得てより」、つまり、私が仏となって以来、というつながりです。「自我が強い」というときの自我を、そのまま一語として読む箇所ではありません。次の「所経諸劫数」へ進むと、仏となってから経てきた時間を述べる文章だと分かります。

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経本で五字の区切りを追うことと、一つの文の意味を読むことは、少し違います。一句で終わらず、次の句へ意味が続くところもあります。最初の十字をつなげてみるだけで、読経の音の中に、誰が何を語っているのかが現れます。

仏となってから、どれほどの時がたったのか

漢訳『法華経』の寿量品は、仏の言葉を信じ受けるよう促す場面から始まります。人々は、釈迦が出家し、伽耶城の近くで悟ったと考えています。そこで仏は、実際には、成仏してから測り知れない時間を経ていると明かします。

その長さを表すため、経は、無数の世界を細かな塵にし、はるかな距離を進むごとに一粒ずつ置くという譬えを用います。さらに、その塵の数を劫という長大な時間に対応させても、成仏以来の時間はそれを超えると説きます。単に人間の寿命を少し延ばした話では捉えられない、久遠の仏が示されるのです。

偈の冒頭も、長い時間を語った後、すぐに説法へ進みます。「常説法教化」「令入於仏道」。仏の寿命の長さは、衆生を仏道へ導く働きと一緒に語られています。どれほど長く存在するのかという問いに、何のために法を説くのかという問いが重なります。

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姿を見せない仏と、薬を残す父

ここで一つ疑問が生まれます。仏が長くこの世界で法を説くのなら、なぜ入滅を語るのでしょうか。寿量品は、いつでも仏に会えると思うことで、教えを求める気持ちが薄れ、怠りに向かう者がいると説きます。そこで、姿を見せないことも、衆生を導く方便として語られます。

前半の長行には、医師である父と、毒を飲んだ子どもたちの譬えがあります。父が良薬を与えると、すぐ飲む子もいれば、薬のよさが分からず飲まない子もいます。父は薬を残して出かけ、使いを通じて、自分が亡くなったと知らせます。

その知らせを受けた子どもたちは、残された薬へ目を向け、飲んで病が癒えます。それを知った父は帰ってきます。経の中では、父の不在が、薬を受け取る転機になっています。この譬えが、仏が実際には滅びていなくても、滅度を示すという説明へつながります。

自我偈の後半に出てくる「如医善方便」を読むときには、この物語へ戻れます。父が去ったところだけで終わらず、薬が残され、子どもがそれを飲み、再び父が姿を見せるところまで読む。そうすると、不在だけを告げる話としては受け取れなくなります。

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最後の四句は、衆生へ向けた問い

寺泊・法福寺が公開する自我偈の経文では、結びは次の四句です。ここでは、その経本の字に沿って読みます。

毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身

仏はいつも、どうすれば衆生をこの上ない道へ入らせ、速やかに仏の身を成就させられるか、と考えている。四句は、その願いを表しています。「以何」は、何をもって、どのようにすれば、という問いです。日蓮宗の寿量品解説も、この結びに久遠の釈迦の慈悲を見ています。

偈の始まりでは「我」が仏自身の成仏を語りました。終わりでは「衆生」が仏道に入ることへ、視線が向かいます。長い寿命をもつ仏の紹介を聞いていたつもりが、最後には、その仏が誰を思っているのかを聞くことになります。

一句が気になったら、前の文章へ戻れる

読経で耳に残った言葉を、経本の中で一つ見つけてみます。「仏道」なら冒頭から続く教化の働き、「良医」なら前半の譬え、「毎自」なら結びの願い。偈と長行の間を行き来すると、短い句を単独の格言として読むときとは違うつながりが見えます。

日蓮宗で親しまれるお題目は、経題を唱える言葉です。自我偈の経文を読むことと、題目を唱えることを区別して知ると、勤行の中で何をしている時間かも確かめやすくなります。実際に用いる経本や読み方は、参加する寺院の次第に沿って教わります。

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開経偈には、教えの真意を理解したいという願いがあります。自我偈を読み、すぐに全部が分からなくても、気になった言葉は残ります。次に同じ声を聞いたとき、冒頭から最後へ、仏の言葉がどこへ向かっているのかを、少し長く追うことができます。

よくある質問

自我偈は、法華経とは別のお経ですか?

法華経の第十六章「如来寿量品」の後半にある偈の部分です。冒頭の「自我得仏来」にちなんで自我偈と呼ばれます。前半の文章を合わせて読むと、偈に出てくる良医や、仏が滅度を示す意味をたどれます。

自我偈の「自我」は、自我をなくすという意味ですか?

ここは「我、仏を得てより」と読み、仏が成仏して以来の時間を語り始めるところです。現代語の「自我」を一語として当てはめると、句のつながりが分かりにくくなります。

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