二諦とは?「空」と日常の言葉が矛盾しない理由

「すべては空だ」と聞いた後で、人との約束まで空なら、守らなくてもよいのだろうかと思う。あるいは、日常の言葉が究極の真理ではないなら、教えを読む意味もなくなるのではないか。空を学び始めると、そんな疑問が生まれます。

二諦(にたい)は、世俗諦と第一義諦、または勝義諦という二つの真理をめぐる教えです。龍樹の『中論』では、空を説くことが仏道や因果を壊してしまうのか、という問答の中に登場します。まずは、その問いが置かれた場面から読んでみます。

最初の批判を、龍樹の結論と取り違えない

漢訳『中論』巻第四の「観四諦品」は、空への批判から始まります。一切が空なら生も滅もなく、そうすると苦・集・滅・道という四聖諦もない。苦を知り、その原因を断ち、滅を証し、道を修めることまで、成り立たなくなるではないか、という批判です。

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さらに、修行の果や僧・法・仏の三宝、罪福とその結果、世俗の事柄も壊してしまうと続きます。ここは、龍樹が「何もない」と宣言している箇所ではありません。対論者が、空を説く相手へ投げかける難問です。

答えは、空の意味と、空を説く理由を理解していないという指摘から始まります。その直後に二諦が示されます。章の冒頭だけを抜き出すと、批判される側と答える側が逆転してしまいます。

世俗諦と第一義諦は、何を分けるのか

観四諦品には、諸仏は二諦に依って衆生に法を説く、一つは世俗諦、もう一つは第一義諦である、という偈があります。「諦」は、諦めるという日常語の意味ではなく、真理に関わる語です。

信州大学の護山真也氏による二諦の説明でも、世俗的な真理と究極的な真理が区別されています。第一義諦は、勝義諦とも呼ばれます。『中論』を読む際には、訳語の違いによって三つ目の諦が増えたと思わずに済みます。

世俗では、私、あなた、机、約束などの言葉によって物事を説明します。その言葉が何かを指し、意思を伝えることは成り立っています。一方、その名のもとに、他の条件から独立した不変の本質があるとつかむなら、『中論』が問う自性の問題が生じます。二諦は、都合に応じて本当と嘘を使い分けるための口実ではありません。

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言葉を通らずには、空も説明できない

同じ章は、世俗に依らなければ第一義を示せず、第一義に至らなければ涅槃を得られないと続けます。漢訳に付された釈文は、第一義を説くにも言説が必要であり、その言説は世俗であると説明しています。

「本当のことは言葉にできない」と言うにも、言葉を使っています。だから言葉は無意味だと捨てるのでなく、言葉によって示すことと、その言葉を固定した実体にしてしまうことを区別します。説明があるから学べる一方、説明の文言だけを握って理解を終えない、という問いが残ります。

たとえば、経典で六根・六境・六識を分けると、見るという経験を、拠り所・対象・認識から読めます。それぞれの名詞を学ぶことには意味があります。ただ、その分類を学んだことが、各要素は独立して変わらず存在するという証明にはなりません。

ここで世俗は、終わったら消してよい邪魔物とは言い切れません。教えを受け取り、問いを伝え、誤解を確かめる場も、言葉のやり取りの中にあります。

固定されていないから、因縁が意味を持つ

観四諦品の議論は、途中で向きを変えます。もし諸法に決まった自性があるなら、因や縁を必要としないことになる。そうなれば、むしろ生滅や因果を壊してしまうではないか、と問い返すのです。

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たとえば苦が、それ自体だけで永遠に苦として成り立つなら、原因によって生じるとも、原因を断って滅するとも説けません。道も、最初から変化の余地なく決まっているなら、修めることが説明できなくなります。空と四聖諦を対立させた冒頭の批判に、逆の方向から答えています。

この章では、因縁によって生じる法を、空であり仮の名によって説かれるものとして説明します。名前が仮であることは、名前を付ければ何でも自由に実現するという意味ではありません。条件を離れて成り立つものではないからこそ、何に依っているかが問われます。

「約束も空だから」で、話を終えられるか

暮らしに引き寄せるなら、待ち合わせが一つの例になります。時刻、場所、互いの連絡があって、約束は具体的なものになります。事情が変われば調整も必要です。約束が条件によって成り立つことは、相手が待った事実や、連絡する必要まで消しません。

約束を忘れたときに「究極的には私もあなたも空だ」と返すなら、相手が尋ねている問題に答えていません。約束した内容を確かめ、遅れを伝えることと、自分を永遠に不誠実な人だと決めつけることとは別です。これは日常への応用であり、二諦を個別の契約の有効・無効を判定する規則にするものではありません。

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二諦の解釈は、その後の中観の論師たちによっても論じられます。最初から一つの短い定義で全部を済ませるより、まず観四諦品の問いと答えを通して読む。『仏遺教経』でも重んじられる四聖諦や修行を、空によって失うのか、それとも空として読み直すのか。この問いを最後まで追うと、「何もかも無意味」という結論とは異なる場所へ進めます。

よくある質問

二諦とは、二つの世界があるという意味ですか?

中論では、諸仏が世俗諦と第一義諦によって法を説くことが示されます。日常世界の外に別の宇宙を置く説明として読むより、言葉や概念による説明と、諸法を固定した自性としてつかまないこととの関係を確かめます。

空なら、善悪や行いの結果もなくなりますか?

中論の観四諦品は、まさにその批判に答えています。自性がないことを因果の否定とはせず、逆に、何もかもが自性によって固定されていれば、生滅や修行も成り立たないと論じます。空は、何をしてもかまわないという許可ではありません。

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