白隠禅師坐禅和讃を読む:「衆生本来仏なり」の先へ

「衆生本来仏なり」。白隠禅師坐禅和讃は、生きとし生けるものは本来仏である、と始まります。それなら、なぜこれから坐禅や修行について語るのでしょうか。

この和讃は、始めの一行から、迷いを見つめ、教えを聞き、自ら確かめていく歩みへと進みます。結びの「此身即ち仏なり」までたどると、同じ「仏」という言葉の間に、何が語られているのかが見えてきます。

江戸時代の白隠が、日本語で伝えた禅

白隠慧鶴(はくいんえかく)は、江戸時代に臨済禅を広めた僧です。坐禅和讃は、日本語の七五調に教えを託したもので、漢文の経典に比べると、言葉の区切りを耳で追いやすいところがあります。

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臨黄ネットの経典案内にも、この和讃が紹介されています。日々の動作を含めて禅を説く文章として位置づけられ、寺院で読誦されてきました。経本の中には、インドに由来する経典と、日本の祖師が作った文章が一緒に収められています。誰の言葉かを知ると、読む文章の背景がはっきりします。

明石・大蔵院の公開本文は、和讃の全文を原文とともに読める入口です。まず本文を一度通して読み、その後で気になる句の前後を読み直すと、短い一行に意味を詰め込みすぎずに済みます。

水と氷のたとえから、迷いの話へ

冒頭では、衆生と仏の関係が水と氷でたとえられます。水を離れて氷がないように、衆生のほかに仏があるのではない、という関係です。仏を遠くにいる別の存在として探し続ける姿に、問いが向けられます。

続くのは、水の中にいながら渇きを訴える人、豊かな家の子でありながら貧しい里で迷う人のたとえです。ここでの渇きや貧しさは、教えを伝えるための比喩として置かれています。その後に、六つの迷いの世界を輪廻する原因として、自らの無明が語られます。冒頭の明るい響きから、迷いの深さへと話が進んでいることが分かります。

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本来のあり方が説かれていても、そのことを自分が明らかにしているかどうかは、別の問いとして残ります。和讃の中盤へ続く修行の言葉は、そこから読むとつながります。

布施や持戒が出てくる、中ほどの言葉

和讃は、大乗の禅定を讃え、その中に布施、持戒、念仏、懺悔などの善行が帰すると歌います。「摩訶衍(まかえん)」は大乗を表す語です。坐禅和讃という題名でも、身体を坐らせる手順だけを説明しているわけではありません。

ここは、白隠の立場から禅定を大きく讃える部分です。一座の功徳や罪が滅することも、強い言葉で歌われています。その宗教的な讃歎を受けとめつつ、他宗の念仏や持戒を不要とする共通規則に置き換えず、この和讃の流れとして読めます。布施や戒という言葉が並ぶこと自体、禅の修行が行いを含むことを思い出させます。

「自性即ち無性」を読み飛ばさない

後半には、自らの本性を直接に明らかにすることが語られ、そのすぐ後に「自性即ち無性」という句が置かれます。自性という言葉を見つけたところで、身体の奥に変わらない何かが隠れている、と想像を固める前に、この続きまで読めます。

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ここでの無性は、固定した実体としてつかめないことに関わります。和讃は、言葉や概念にとらわれて議論を重ねることから離れる方向へ進みます。「本来仏」という句も、私だけの特別な価値を主張する札のように握りしめるより、その執着自体を見直す言葉として読み返せます。

難しく感じたら、経本に印を付け、法話や坐禅会でこの一節を尋ねる方法があります。禅宗の学び方には、坐ることと、読んだ言葉を指導者に尋ねることの両方があります。すぐに言い換えられない句を、分からないまま一つ残しておくのも、次に学ぶきっかけになります。

歌うことも、帰ることも、教えとつながる

無相、無念という語に続いて、行き来すること、歌うこと、舞うことが語られます。臨黄ネットの解説も、この和讃を行住坐臥、すなわち日常のさまざまな動作と結び付けて読んでいます。禅堂で坐っている時間から、暮らしの場へと視野が広がる部分です。

最後には、寂滅が現れ、この場所が蓮華国、この身が仏であると歌われます。寂滅は、煩悩や執着が静まった境地に関わる言葉です。始めの「本来仏」へ戻るような結びですが、その間には、迷い、修行、教えとの出会い、自ら明らかにすることがありました。二つの有名な句をつなぐのは、この本文の歩みです。

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唱え終えたら、一か所だけ読み返す

実際にお勤めで唱えるなら、寺院で使う経本の字と読み方に合わせます。区切りや表記が違って見えるときも、同じ和讃のどの句に当たるかを確かめられます。声の速さだけをまねるより、意味のまとまりが分かると、途中で見失った行へも戻りやすくなります。

読後には、気になった比喩か言葉を一つ選べます。水と氷なら、何と何の関係をたとえているのか。布施や持戒なら、坐禅の話の中でなぜ挙げられているのか。その問いを持って本文へ戻ると、前回は通り過ぎた行が目に入ります。道元の『普勧坐禅儀』を読んだことがある人は、作者も文体も違う二つの文章が、それぞれ修行をどう語るかを比べてみてもよいでしょう。

朝夕に唱え慣れた文章でも、一句の意味が気になる日があります。そのとき、冒頭だけ、結びだけで決めず、その間の言葉を読み直せます。声に出した和讃を、次に教えを聞くための問いへつなげられます。

よくある質問

白隠禅師坐禅和讃は、お釈迦さまが説いたお経ですか?

江戸時代の禅僧、白隠慧鶴が日本語で禅の教えを表した和讃です。臨済宗の寺院などで読誦されます。経本に載っていても、インドの経典を漢訳した文章とは成立が異なります。

「衆生本来仏なり」は、修行しなくてよいという意味ですか?

和讃は、本来仏であることを水と氷でたとえた後、自らの迷い、禅定、教えを聞くこと、自性を証することへ進みます。冒頭を、続く実践の言葉と一緒に読むことが大切です。

「此身即ち仏なり」は、どんな文脈で出てきますか?

和讃の結びにある句です。その前に、自性を直接に明らかにすること、執着を離れた行い、寂滅が現れることが語られます。初めと結びだけでなく、その間の歩みをたどると理解が深まります。

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