普勧坐禅儀を読む:道元の「非思量」と坐ること
「何も考えないように」と言われると、考えが浮かぶたびに、できていない気がしてしまう。坐禅を始めた人がつまずきやすいところに、『普勧坐禅儀』の「非思量」という言葉があります。
『普勧坐禅儀』(ふかんざぜんぎ)は、道元が坐禅を広く勧めるために著した文章です。坐る姿勢の説明と、なぜ坐るのかという問いが、一つの文章の中に置かれています。「非思量」も、前後から切り離さずに読むと、受け取り方が変わります。
「普く勧める」相手は、僧侶だけではない
題名の「普勧」は、広く勧めること。「坐禅儀」は、坐禅のあり方や作法を示します。曹洞宗の道元禅師紹介では、坐禅の意味と行い方を多くの人に伝える文章として説明されています。
道元は中国で如浄に学び、帰国後、坐禅を中心とする仏道を伝えました。東海管区教化センターの解説も、この文章を僧俗に向けた教えとして扱っています。
そのため、専門の修行者になると決めてからでなければ開けない本ではありません。初めての坐禅会の前後に読める文章です。ただ、短い中に古い仏教語が多いため、まず全体の動きをつかみ、気になった一節へ戻るほうが読み進めやすくなります。
冒頭で「修行は必要か」と問うのはなぜか
書き出しには「道本円通、争でか修証を仮らん」とあります。道はもともと行き渡っているのに、どうして修行やさとりを必要とするのか。坐禅を勧める文章なのに、最初にその必要を問いにするのです。
続く部分では、わずかな隔たりや好悪によって迷いが生じることが語られ、釈尊や祖師の実践へ目が向けられます。『普勧坐禅儀』の公式英訳全文では、この前後を続けて読めます。
この順番が大切です。最初の一句で読むのを止めれば、「もともと備わっているなら、何もしなくてよい」と見えるかもしれません。けれども本文は、その理解を握りしめたままでいる人を、実際の坐禅へ促します。
その後に、静かな場所、飲食、衣服、坐る姿勢などの記述が続きます。大きな問いを述べたあと、今ここで身体をどう置くかへ降りてくる。思想と作法が別々の本になっていないことも、この文章の特徴です。
非思量は、坐り定まったところで出てくる
姿勢を調えた後に、次の一節があります。
不思量底如何が思量せん。非思量。
思量しないところを、どう思量するのか。それに対する「非思量」という応答です。「思量」「不思量」「非思量」が続くため、文字の否定を足し引きするだけでは、つかみにくい句です。
東海管区の解説では、坐っている間にも思いは次々に浮かび、その思いに捉われないこととして説明されています。思いが一つ浮かんだ瞬間に失敗とする読み方より、浮かんだ思いを追いかけ続けていることに気づく、という実践に近づきます。
曹洞宗の刊行物で藤田一照も、非思量を論じた文章の中で、思考を拒んで空白の状態を作るような受け取り方を取り上げています。頭の中が静かだったかだけを、その日の坐禅の成績にする必要はありません。
たとえば、坐っている間に明日の予定を考え、その続きで段取りを組み立てていたことに気づく。そのとき「また考えた」と自分を責める思考を重ねるより、教わった姿勢と呼吸のまま坐り直す。このような場面を持って指導者の話を聞くと、非思量という語が自分の疑問に結び付きます。
「安楽の法門」は、坐禅をどう位置づける言葉か
非思量のすぐ後には、「唯是安楽の法門なり、菩提を究尽するの修証なり」とあります。曹洞宗の坐禅解説でも、大切な箇所として掲げられています。
ここでは、坐禅そのものが仏道を究める実践として語られます。後で何かを獲得するために、今の坐禅を単なる準備として扱う姿勢が問い直されるのです。修証義の題名にある「修」「証」とも、共通する問いがあります。
「安楽」という文字は、身体の苦痛を我慢してよいという意味にはなりません。初めて坐る人の足の痛みや、椅子を必要とする事情は、姿勢の指導で具体的に扱う事柄です。教義の言葉と、身体を調えるときの相談は、どちらも大切にできます。
一節を持って坐禅会へ行く
本文を読んでから参加するなら、「非思量とは、思いに気づいたとき、どう坐り続けることでしょうか」といった具体的な疑問を一つ持っていけます。知識を全部そろえてから始める必要はありません。
姿勢や呼吸の入口は坐禅の始め方で確認し、警策のある会なら初めての警策の案内も役立ちます。本文が伝える教えと、その会で教わる動作を結び付けて学べます。
一度坐ったあと、冒頭と「非思量」の段をもう一度開く。読む前には抽象的だった言葉が、坐っていた間のどの疑問に触れているかを探す。『普勧坐禅儀』は、その往復に持っていける文章です。
よくある質問
普勧坐禅儀は、誰に向けて書かれましたか?
道元禅師が、僧侶・在家を問わず坐禅を広く勧めるために著した文章です。坐る姿勢だけでなく、仏道における坐禅の意味も述べています。
非思量は、頭の中を完全に空白にすることですか?
曹洞宗の解説では、思いを無理に消すことより、次々に浮かぶ思いに捉われないこととして説明されます。何も考えなかったかどうかを採点し続ける姿勢とも異なります。
安楽の法門とあるのに、坐禅で足が痛くなるのはなぜですか?
安楽の法門は、坐禅を仏道の実践として語る言葉で、身体に痛みが一切出ないという保証ではありません。痛みやしびれがあるときは無理を続けず、姿勢の調整や椅子の利用を指導者と相談してください。