自然法爾とは?親鸞の「はからい」を読む
自然に任せればよい、と聞いても、仕事も家族のことも放ってはおけない。親鸞の言葉「自然法爾」を、そんな生活上の助言として読むと、かえって戸惑うかもしれません。
自然法爾は「じねんほうに」と読み、親鸞の教えでは、阿弥陀仏の本願によって、そうあらしめられることを表します。人が何もしなくても物事が好転する、という意味ではありません。何が、誰のはたらきによって、そうなると説かれているのか。本文の主語をたどるところから読めます。
「しぜん」ではなく、「じねん」と読む
『末燈鈔』に収められた言葉は、「自然」の自と然を分けて説明します。「自」はおのずから、「然」はしからしむ。続いて、それは行者のはからいではなく、如来の誓いによると述べています。
「しからしむ」は、そうあらしめるという意味です。「法爾」も、如来の誓いによってそうあらしめられることとして説明されます。草木が季節に従って育つ風景や、力を抜いた自然体だけを思い浮かべると、繰り返し現れる「如来のちかい」が抜けてしまいます。
如来とは、ここでは阿弥陀仏です。教えの中心にある本願を知るには、正信偈の前半にある法蔵菩薩の願いも手がかりになります。自分が思いどおりに状況を動かせるかどうかより、迷いの中にある者を仏のさとりへ導く願いが、先に語られているのです。
八十六歳の言葉は、聞き書きとして伝わる
この一段の末尾には、「愚禿親鸞八十六歳」とあり、正嘉二年、1258年の十二月に親鸞から聞いたことを、顕智が書き留めたという記載が続きます。『末燈鈔』は、親鸞の消息や法語などを収める書です。
書き留められた言葉は、自と然の説明から、阿弥陀仏の誓いへ、そして自分のはからいを差し挟まないことへと進みます。短い法語の中にも、教えの筋道があります。
問われているのは、救いを自分で取り決めること
本文の「行者」は、教えに生き、念仏する人を指します。その人のはからいではない、と何度も述べられるのは、何を否定するためでしょうか。
本願寺派に掲載された貫名譲師の法話は、他力を阿弥陀如来の本願のはたらきとして説明し、この自然法爾の言葉を取り上げています。他力の「他」を、仕事を代わってくれる他人と考えてしまうと、話の中心が変わります。
自然法爾の本文は、南無阿弥陀仏とたのませ、迎えようとする阿弥陀仏の誓いへ進みます。さらに、その誓いを、無上の仏にならしめようとするものだと述べます。目的は、今の望みが都合よく実現することにとどまりません。往生と成仏に関わる言葉です。
たとえば、「これだけ善いことをしたのだから救われるはずだ」と、行いを救いの条件として差し出す。反対に、欠点がある自分には救いの資格がないと決める。こうした自分の物差しで本願の届く範囲を取り決める姿勢が、本文を読むときに問われます。謙虚に振る舞えたことを、また新しい資格に数え直すのでもありません。
日々の責任まで、なくなるわけではない
救いの条件を自分の善悪で決めないことと、人を傷つけてもかまわないことは違います。親鸞の言葉を伝える『歎異抄』第十三条は、本願を口実にわざと悪を行う見方を取り上げ、薬があるからといって毒を好んではならない、という消息の言葉を記しています。
同じ条は、煩悩をすべて断ってからでなければ本願を信じられない、という考えにも問いを向けます。悪を勧めることも、完全に善い人だけを救いの対象にすることも避けています。この両方を読むと、「自分は悪くない」と言い張るためにも、「自分には資格がない」と結論づけるためにも、教えを使いにくくなります。
暮らしの中で考えるなら、約束を忘れて迷惑をかけたとき、事情を説明し、必要な対応をすることは残ります。自然法爾を理由に相手へ我慢を求めることはできません。一方、対応した自分を立派な人間だと保証するために、本願の言葉を持ち出す必要もありません。できる対応と、仏の救いを自分で裁定することを、混ぜずに考えられます。
「自然」さえ、握りしめない
法語の最後の部分には、意外な注意があります。この道理を心得た後は、自然のことをいつも取り沙汰するものではない、と述べるのです。自然を絶えず論じれば、はからいがないことを旨とするところに、またはからいが入り込んでしまうからです。
「自然に任せられている自分」を完成させようと力む。その姿も、この結びから問い返されます。はからいをなくせたかどうかを毎日採点し、その点数で安心しようとするなら、今度は自然法爾という言葉そのものが、自分を評価する道具になってしまいます。
法話や報恩講でこの言葉を聞くときも、立派な説明ができるようになることだけを急がずにいられます。語の意味を確かめたうえで、なお自分の理解だけでは測り尽くせないと知らされる。自然法爾の一段は、説明を重ねた最後に、その説明を握る手にも問いを向けています。
よくある質問
自然法爾は何と読みますか?
じねんほうに、と読みます。親鸞の言葉では、阿弥陀仏の誓いによってそうあらしめられることを表し、風景や環境を指す日常語の自然とは意味が異なります。
自然法爾は、何もしなくてよいという教えですか?
自分の努力や善行を救いの条件として差し出す、行者のはからいが問題にされています。暮らしの予定を立てることや、他人を傷つけたときに対応する責任を、不要とする一般命令ではありません。