大日如来とは?密教の中心にいる仏さま
頭に宝冠をかぶり、胸の前で両手を組む仏像。その名前に「如来」と書かれていると、飾りの少ない釈迦如来や阿弥陀如来を思い浮かべて、少し不思議に感じるかもしれません。
大日如来(だいにちにょらい)は、真言密教で法身の仏として中心に位置づけられる尊です。法身とは、仏の真理そのものを身として捉える言葉。ある時代に生まれた一人の人物を知る時とは、少し違う入口が必要になります。
お堂の中央に、大日如来がいる
京都の東寺講堂の立体曼荼羅では、大日如来を中心に二十一尊が安置されています。如来、菩薩、明王、天部が一つのお堂に集まり、それぞれの姿を通して密教の教えを表しています。
中央の像だけを見ると、ほかの仏より高い地位にいる、と理解したくなるかもしれません。ただ、ここで表される中心は、単に組織の上役という意味ではありません。周囲の尊像との関わりまで含めて、大日如来の世界を表しています。両界曼荼羅でも、大日如来は多くの仏たちとともに描かれます。
法身は、どこかに隠れた巨大な身体なのか
「真理を身とする」と聞いても、すぐ形を思い浮かべるのは難しいものです。密教の法身は、遠い空間に大きな人の姿が隠れている、という話だけで捉えられません。
空海の『即身成仏義』は、地・水・火・風・空・識という六大を挙げ、仏も衆生も、その暮らす世界も、この六大を離れないと説きます。ここでの「識」には心の働きが含まれています。物質だけを並べて世界を説明するのでなく、心と身体、仏と人との関係を、同じ教えの中で見ています。
六大は古い仏教の世界理解です。現代科学が発見した六種類の物質、という説明ではありません。また、すべてが関わるという言葉を、自分の考えだけで周囲を自由に動かせるという意味に読み替えることもできません。
この教えを知ると、大日如来を一体の像として拝むことと、像だけに限られない仏のあり方を学ぶことがつながります。形に表しているからこそ、その形を越えて何を伝えようとしているか、問い直せるのです。
釈迦如来との関係は、二択では収まらない
釈迦は、インドで生き、人々に教えを説いた仏として知られます。大日如来を語る真言密教でも、釈迦への敬いが失われるわけではありません。高野山の常楽会の説明にも、釈迦の入滅を偲び、教えを伝えてきた恩を思う法会が紹介されています。
教学では、大日を法身、釈迦を人々に応じて現れる仏の姿として説く見方があります。その一方で、大日と釈迦をどの意味で同じとし、どの意味で分けるのかは、長く議論されてきました。
別所弘淳の研究「大釈同異論再考」は、真言の学匠にも両者の同体を説く記述が多くあり、論じる視点によって同体・別体の説明が変わることを示しています。「真言宗では絶対に別、別の宗派なら必ず同じ」と暗記するより、何を説明するための区別なのかを確かめる方が、教えに近づけます。
『大日経』が、慈悲を根本とすること
大日如来について知るために、像から経典へ目を移してみます。『大日経』巻第一の住心品では、金剛手の問いに対し、仏の智慧について、菩提心を因とし、悲を根本とし、方便を究竟とすることが説かれます。菩提心は悟りを求める心、悲は人々の苦しみに向き合う慈悲です。
この一節の前では、人々の性質や願いに応じて、さまざまな姿や言葉で教えを伝えることが語られています。その流れで読むと、智慧を持つとは自分だけが正解を所有することか、という問いも生まれます。相手が今どんな言葉を受けとめられるか、その苦しみに何が関わっているかまで含む教えです。
さらに同じ品には、菩提を、自分の心を如実に知ることとして説く言葉が続きます。そこでは心を内や外の一定の場所に探しても、固定したものとしてつかめないと語られます。自分の好みを絶対の真理とすることとは距離があります。大日如来の教えを学ぶ入口に、自分の見方を問い直すことが置かれているのです。
人に説明する時、知識があるほど話を先へ進めたくなることがあります。経文を日々の問いとして読むなら、説明の正しさだけでなく、相手が置き去りになっていないかを振り返れます。これは経の教えを手がかりにした一つの受けとめ方で、日常の会話を密教の修法と同じものにする説明ではありません。
宝冠と手の形を確かめる
『大日経』の曼荼羅を説く箇所には、大日如来が髪髻冠を持つ姿も記されています。宝冠や装身具のある如来像を見る時、それを菩薩と取り違えないためにも、名前の表示が役立ちます。
岐阜県が紹介する江龍寺の金剛界大日如来坐像も、五智冠をかぶり、智拳印を結ぶ像です。「冠がある」「手に特徴がある」という二つの手がかりが、具体的な作品で結び付きます。細かな印相の見方は、像全体や所蔵先の説明とあわせて読めます。
宝冠、手の形、隣にいる仏。一度の参拝で全部を理解しなくても、前には気づかなかったものを一つ確かめられます。大日如来という名前を知った後には、その姿がどんな教えを担っているのか、もう少し尋ねてみたくなります。
よくある質問
大日如来と釈迦如来は、同じ仏さまですか?
真言密教では、大日如来を法身の仏、釈迦を人々に教えを説く姿として説明することがあります。ただし、両者を同体と見るか、区別して説くかには、論じる立場や目的による違いがあります。「完全に別の仏」と一律に決めることはできません。
大日如来が宝冠をかぶっているのはなぜですか?
大日如来は、宝冠や装身具を備える姿で表されます。古い密教経典にも髪髻冠を持つ姿が記され、如来だから装飾がない、という見分け方だけでは判断できません。手の形や作品名もあわせて確かめられます。