四依とは?「人に依らず法に依る」を、前後の教えと読む
法話を聞いて疑問が残ったとき、「高名な先生が話したのだから」と、自分の問いを引っ込めたくなることがあります。反対に、「人に依らず法に依る」と聞いて、誰の説明にも頼らず、自分だけで決めればよいと思うこともあるかもしれません。
四依(しえ)は、教えを学ぶ際のよりどころを、法・義・智・了義経という四つの面から示す言葉です。どの人を信じるかという問いを、何が説かれ、その意味をどう受け取るかという問いへ広げます。
四つの言葉を並べてみる
『大智度論』巻九には、次の四つが並びます。表は、その語を読むための短い説明です。
四依の四句
| 言葉 | 読み方の手がかり |
|---|---|
| 依法不依人 | 法に依り、人に依らない |
| 依義不依語 | 語が示す意味をよりどころとする |
| 依智不依識 | 智慧をよりどころとし、識に依らない |
| 依了義経不依不了義経 | 趣旨が明らかな教えに依り、さらに意味を解く必要のある教えは吟味する |
第一の句だけで読むと、師との関係の話に見えます。けれども、その後には言葉と意味、智慧と識、経の解釈が続きます。誰が言ったかを確かめた後にも、学ぶ内容そのものへ向かう問いが残ります。
人から学ぶことは、閉じられていない
大乗の『大般涅槃経』巻六では、正法を護り、世間のよりどころとなる四種の人が先に説かれます。それに対して迦葉は、魔が仏の姿さえ現せるのなら、外見からその人を信じてよいのかと問い返します。立派な姿を見たことと、その教えに依ってよいことの間に、疑問が置かれるのです。
やがて四つの法が挙げられますが、経は、正法を理解し護持する人へ学ぶ道を消してはいません。如来の教えを深く理解して説く人は、よりどころとされます。四依を掲げて、僧侶にも書物の解説にも耳を貸さないと決めると、この前後のつながりが切れてしまいます。
同時に、この経で「法に依る」とは、如来の常住や法性を知ることに結びついています。単に話の論理が整っているかを調べる、現代の一般的な情報確認だけを説いた文章ではありません。大乗の涅槃経が大切にする教えの中に、この句が置かれています。
今、法話を聞く場であれば、話し手の名前に加えて、どの経のどの箇所を説いているか尋ねられます。自分の理解と違う時にも、すぐ賛成か反対かを決めず、説明の根拠を教わる余地があります。自灯明と法灯明を一緒に学ぶ時と同じく、自分で受け止めることにも、法を学び続けることにも場所が残ります。
指を見たあと、月へ目を向ける
『大智度論』は「依義」を説明するため、指で月を示すたとえを用います。ある人が月を指して教えているのに、教わる人は指ばかり見て、月を見ません。言葉は意味へ向かう指のようなもので、指と月を取り違えないようにするのです。
ここには、言葉が意味を示すという役割があります。経文を読まなくても、何となくよい気分になれば理解したことになる、というたとえにはできません。言葉をたどって、その言葉によって何を伝えようとしているのかへ進みます。
たとえば「放下」という語が心に残ったなら、何を、どんな場面で手放すと説かれているかを読む。自分に都合のよい一語だけを持ち帰る前に、問いと答えや、前後の段落を確かめます。経の冒頭にある如是我聞と、後に続く場面も、言葉を宛先のある教えとして読む助けになります。
心地よさと智慧、字面と了義
同じ論で「智」は、善悪をよく考え分ける働きとして説明されます。一方、ここで対比される「識」は、楽を求めて肝心なところに入らないものとして語られます。耳に心地よかったという感想から、さらに、その教えが何を明らかにするかへ進む読み方です。
「了義」の説明では、解釈の実例が示されます。巻九の議論は、十方に仏がいるという説と、一つの世に二仏はいないという言葉が、どう両立するかを問います。論は、一世界に二仏はいないということを、あらゆる方向の世界に他の仏はいないという意味に広げてはいけない、と説明します。「世」がどこまでを指すかによって、文の受け取り方が変わります。
これに対し、『大般涅槃経』の四依では、如来の常住を説く大乗の教えが了義として位置づけられます。何を十分に説かれた教えとするかには、その経の仏の捉え方が深く関わります。すべての経を、読みやすさ順に並べる分類ではありません。
ある解説で「これは了義です」と出てきたら、結論とともに、どの経論の立場からそう言うのかを見ます。同じ仏教語でも説明の位置が違うと分かれば、自分の好きな説だけを正しいと決める前に、比較して学べます。
法話のあとに残せる、具体的な疑問
話を聞いたあと、心に残った一文と、まだ分からない点を別々に書いておく方法があります。「この比喩の月は、何を表していますか」「この説明は、どの経の立場ですか」。短い問いでも、話し手の名声をめぐる議論から、教えの内容へ戻れます。
四依を学ぶと、感銘を受けた言葉にも、引っかかった言葉にも、続きを尋ねられます。教える人の声を聞きながら、その声が指し示している意味へ目を向ける。法話や経本に向き合う時、その両方を持っていてよいのです。
よくある質問
依法不依人とは、先生や僧侶から学ばなくてよいという意味ですか?
人の名望だけで教えを決めず、説かれている法に照らすという方向があります。大乗の大般涅槃経は、依法を説く一方、正法を理解し護持する人をよりどころとすることも肯定しています。学ぶ相手をすべて退ける言葉にはできません。
了義経とは、自分に分かりやすいお経ですか?
意味が明確に説かれているか、その趣旨をさらに解く必要があるかという問題です。ただし、何を了義とするかには経論の教義上の立場が表れます。短くて読みやすい、気分に合うという基準で分けることはできません。