如是我聞とは?お経の冒頭にある「私はこう聞いた」の意味

お経を開くと、最初に「如是我聞」の四字がある。読み下しには「是の如く我聞けり」とあり、音読では「にょぜがもん」と聞こえます。この「私」は仏なのでしょうか。それとも、今お経を読んでいる自分なのでしょうか。

如是我聞は、「私はこのように聞いた」という、教えを伝える側の言葉です。四字の後に続く時・場所・人々も一緒に読むと、教えが語られる場面が見えてきます。

「如是我聞」と「我聞如是」

「如是」は、このように。「我聞」は、私は聞いた。「これは私が考え出した意見です」という出だしとは違い、聞いて受け継いだ教えを、これから伝えるという形になっています。後に何が語られるのかを受け止める入口です。

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鳩摩羅什訳『阿弥陀経』は「如是我聞」、康僧鎧訳として伝わる『無量寿経』は「我聞如是」で始まります。後者も、私はこのように聞いた、という意味です。お勤めの本を替えたときに字の順番が違っていても、それだけで誤植とは限りません。まずは題名と、どの訳に基づく本文なのかを見ます。

無我を説くのに、なぜ「我」と言うのか

この疑問は、古くから考えられていました。『大智度論』巻第一には、一切法は空であり我はないというのに、なぜ経の初めで「我聞」と言うのか、という問答があります。

答えは、弟子たちは無我を知っていても、世間の言葉に従って「我」と言う、というものです。話す人を指すために「私」を使うことと、変わらない実体としての私を立てることを分けています。

「私が聞きました」と言えば、誰が伝えているのかが分かります。その言葉をなくしてしまうと、誰の聞いた話なのか、誰に問い返せばよいのかも伝えにくくなります。無我は、日常の一人称を全部禁止する規則ではありません。

同じ論は「如是」を、信をもって法へ入ることにも結びつけています。ただの前置きとして通り過ぎず、教えに向き合う姿勢をここに読むのです。字面の訳と、その四字に託された仏教的な解釈の両方があります。

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阿難が伝えた、という結集の物語

『大智度論』巻第二は、如是我聞を阿難などの弟子たちの言葉として説明します。仏が入滅した後、摩訶迦葉らが教えを集め、阿難が経を誦出する物語が語られます。こうして教えを集め、伝えることが結集です。

その中には、阿難が最初の説法について、そのとき自分は見ておらず、伝え聞いたと述べる偈もあります。阿難が伝えるという説明が、そのまま、すべての説法に本人が居合わせたという意味になるわけではありません。古い伝承の中にも、聞き伝えるという筋道が示されています。

如是我聞は、教えを受け継ぐ者の声として読めます。この四字だけを根拠に、どの経も一人の記憶によって一字一句そのまま記録された、とまで結論を広げることはできません。まずは、その経をどう伝えると語っているのかに耳を傾けます。

場所と人名は、読み飛ばせる名簿だろうか

『金剛経』の最初の場面では、舎衛国の祇樹給孤独園という場所と、千二百五十人の比丘が示されます。続いて仏は町へ托鉢に行き、戻って食事を終え、足を洗い、座ります。その後、須菩提が立って問いかけます。

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一方、『阿弥陀経』の古い漢訳本文は、同じ園と比丘の数に続き、舎利弗や阿難などの弟子、菩薩たちの名を挙げます。そして仏が舎利弗に、西方の極楽と阿弥陀仏について説き始めます。冒頭の場所が同じでも、問答の進み方まで同じではありません。

「一時」は、時計の一時を指しているのではなく、ある時、という語り出しです。ここには年月日が書かれていないため、四字と場所だけで説法の日付まで分かるわけではありません。経文が示している時と場を読み、書かれていない日付まで補わずに先へ進めます。

誰かの問いに答える場面なのか、仏から語り始める場面なのか。誰に向けて、何を説こうとしているのか。固有名詞をすべて暗記する前でも、この違いは本文から確かめられます。冒頭を読むと、その後の教えを、宛先のない格言だけとして扱わずに済みます。

次に経本を開いたら、最初の一文を

すべてのお経が、同じ四字で始まるわけではありません。よく読まれる玄奘訳の短い『般若心経』は、観自在菩薩が深い般若波羅蜜多を行じる場面から始まります。また、法事や日常のお勤めには、経典のほかに讃嘆の偈や祖師の文章も収められています。経本を開いた最初のページが、そのまま一つの経典の冒頭とは限りません。

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次に本文を読むときには、題名の下の一文と、誰が誰に語りかけるのかを確かめてみます。「私はこう聞いた」と始まる文と、その後に仏が話す文を分けるだけでも、声の移り変わりを追えます。現代語訳と漢文が併記されていれば、その切り替わる場所を見比べられます。

本願寺派が公開する福間義朝師の法話は、如是我聞に、教えを聞き受ける者の謙虚な姿勢を読み取ります。意味を一度知って終わるのではなく、読み直したときにまだ分からない点も聞いてみる。そのように、四字は今日の聞法にもつながっています。

よくある質問

如是我聞の「我」は、お釈迦さまですか?

経文を聞いて伝える側の「私」です。大智度論は阿難などの弟子の言葉として説明し、仏自身が「私は聞いた」と言っているのではないと区別します。経の中で仏や弟子が語る場面とは、語りの位置が違います。

如是我聞で始まらないお経は、正式なお経ではないのですか?

冒頭の四字だけでは判定できません。我聞如是という語順の漢訳もありますし、よく読まれる玄奘訳の短い般若心経は、観自在菩薩の行を述べる文から始まります。経本の題名や訳者、収められた本文を確かめます。

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