讃仏偈の意味:「光顔巍巍」から読むお勤めの言葉

お勤めが始まり、「こうげんぎぎ」という声を聞きながら経本を開く。漢字は追えても、途中から出てくる「我」が誰なのか分からなくなる。讃仏偈は短い偈文ですが、言葉の主を確かめると、読む時の景色が変わります。

讃仏偈(さんぶつげ)は、『仏説無量寿経』上巻で、法蔵菩薩が世自在王仏を讃え、自らの願いを述べる一節です。「光顔巍巍」から「忍終不悔」まで、四字八十句でつながっています。

最初に、声の主と向かう相手を知る

讃えているのは法蔵菩薩です。経典では、後に阿弥陀仏となる方として説かれます。その法蔵菩薩が仰いでいる師は、世自在王仏(せじざいおうぶつ)です。冒頭の輝くお顔を、まずこの師の姿として読むと、続く言葉がつながります。

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真宗大谷派名古屋教区第30組の公開本文では、「嘆仏偈」の名で原文と書き下し文を読めます。宗派の経本では、呼び名や字形、唱え方に違いがあります。家の経本と別の音源を照らし合わせる時は、同じ宗派のものかを先に確かめておくと、表記の違いで迷いにくくなります。

「光顔巍巍」は、顔立ちを褒めるだけ?

「光顔巍巍(こうげんぎぎ)」の「巍巍」は、高く気高いさまを表します。続いて日月や摩尼、つまり宝珠の光さえ、その輝きの前では隠れてしまう、と讃えられます。日常の明るさを測る言葉を越えて、仏の徳を表している箇所です。

その後には、戒、教えを聞くこと、精進、三昧、智慧などが並びます。外に見える光から、その光として表されるさとりの徳へ、読む目を移せます。「無明欲怒 世尊永無」もその流れにあり、無知や欲、怒りを離れた師への讃歎です。

本願寺派総合研究所の講座も、冒頭をさとりの境地の表現として説明しています。姿を讃える句の後に、どんな徳が続くか。経本を読み返す時は、そこまでを一続きにしてみると意味が深まります。

「願我作仏」で、願いを述べる声へ

「願我作仏(がんがさぶつ)」に来ると、法蔵菩薩は自らも仏になることを願います。続く「斉聖法王」は、師である仏と等しいさとりへ向かう言葉です。ここでの「我」は、いま経本を持っている人の自己紹介ではなく、経典の中で願いを述べる法蔵菩薩を指します。

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「一切恐懼 為作大安」では、恐れおののくものに安らぎをもたらす願いが語られます。その先には光の届く世界や、人々が生まれる国土への願いが続き、「快楽安穏」へ至ります。「快楽」はここでは「けらく」と読む仏教語で、浄土に生まれた人々の安らかなあり方に関わります。

この部分を今の自分に引き寄せるなら、「人を助けたい」という気持ちがどこへ向いているかを考える入口になります。ただし、法蔵菩薩の願いの大きさを、そのまま自分一人の担当範囲にする必要はありません。人の不安を聞き、必要な助けにつなぐ場面でも、この句を思い返せます。

国土への願いの中にある「国如泥洹」の泥洹(ないおん)は、涅槃を表す言葉です。見慣れない漢字でも、泥のある場所を指しているわけではありません。また、「恒沙」はガンジス川の砂にたとえた数の多さを表します。こうした語を一つ確かめるだけでも、国土や光が語られる段を、意味の切れない音の列として聞かずに済みます。

結びの「忍終不悔」を切り離さずに読む

「幸仏信明」からは、自らの志を仏に認めていただきたいという願いへ進みます。そして最後の「仮令身止 諸苦毒中 我行精進 忍終不悔」で、どんな苦難の中でも道を退かないという決意が述べられます。本文全体をたどると、誰のために、何を成し遂げようとする誓いなのかがはっきりします。

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「忍びて終に悔いじ」という句だけを、つらい人に向けた我慢の命令にしてしまうと、その主語が入れ替わります。介護や仕事で疲れきっている人が休むこと、助けを求めることの可否を、この一行で決めるものにはできません。唱える時にも、救いを誓う法蔵菩薩の言葉として受けとめられます。

重誓偈・正信偈とは、どこが違う?

経本で隣り合っている偈文も、冒頭と出典を覚えると探しやすくなります。「我建超世願」で始まる重誓偈は、同じ『無量寿経』の中で、四十八願を述べた後に誓いを重ねる部分です。大谷派の三誓偈の解説と本文でも、この位置関係が確認できます。

一方、正信偈は「帰命無量寿如来」で始まり、親鸞聖人の『教行信証』に収められています。法蔵菩薩について語る句も出てきますが、偈文を作った人と、その中に登場する人を分けて読むことになります。

経本の最初の一行へ戻る

唱え方を確かめたい時には、所属する宗派の経本と音源を組み合わせます。本願寺派の信行寺による解説は、複数人で唱える時、最初の「光顔巍巍」を一人が唱え、次の句から皆が続くことなどを説明しています。ひらがなだけを追うより、句の切れ目が見つけやすくなります。

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家でのお勤めで、一度に全部の意味を覚えるのは大変です。今日は「願我作仏」で願いが始まる、と分かるだけでも、次に経本を開く目印になります。声にしていた「我」の向こうに、法蔵菩薩の願いがある。そのことを知って、最初の一句に戻れます。

よくある質問

「光顔巍巍」は何と読み、誰のことを表しますか?

「こうげんぎぎ」と読みます。讃仏偈では、法蔵菩薩が師である世自在王仏の気高く輝く姿を讃える言葉です。法蔵菩薩は、後に阿弥陀仏となる方として経典に説かれます。

讃仏偈と正信偈は違うお経ですか?

讃仏偈は『仏説無量寿経』上巻の一節です。正信偈は親鸞聖人の『教行信証』に収められた偈文で、「帰命無量寿如来」から始まります。経本に一緒に載っていても、出典と語り手が異なります。

「忍終不悔」は、つらくても我慢し続けるという意味ですか?

讃仏偈の末尾では、法蔵菩薩が、苦難の中でも人々を救う道を退かないという決意を述べています。誰の誓いかを保って読む句であり、読者が危険や苦痛を一人で耐え続ける義務に置き換えることはできません。

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