六和敬とは?僧団の和合を、食事・言葉・学びから考える
同じ場所に住み、一緒に修行する。それだけで人々の間に和が生まれるとは限りません。誰が何を受け取り、どのように語り、何を大切にして暮らすのか。六和敬は、ともに行い、互いを敬うことを、具体的な生活と修行から考える教えです。
その背景を知るため、『中阿含経』の「周那経」が説く六慰労法をたどります。経には、鉢の中の食べ物を分けるという、小さくて具体的な場面まで書かれています。
鉢に入った食べ物も、ともに分ける
『中阿含経』巻五十二「周那経」は、法にかなって得た利益を、梵行をともにする者へ分けることを説きます。自分が得た食事、すでに鉢に入ったものまで挙げています。ここでの梵行者は、清らかな修行をともにする仲間です。
食事は、僧が修行を続ける生活の支えでもあります。よい物が自分に届いたというところで話を閉じず、仲間との関係へ置き直す。経が和合に含めているのは、笑顔や親しい言葉だけに収まらない、物の分け方でもあるのです。「如法に得た」という条件もあり、手に入れた経緯を問わず、分ければよいとする話ではありません。
今日の学びの場に引き寄せるなら、配布物や参考資料が一部の人にだけ届いていないか、と確かめることはできます。これは僧の食事の規定そのものではありませんが、話し合いに参加するためのものを、ともに使えるかという問いにつながります。
身体、言葉、心の三つに慈しみがある
六慰労法の最初に並ぶのは、慈しみのある身の行い、言葉の行い、心の行いです。いずれも、一緒に修行する人へ向けられます。表面の態度だけをそろえるのでも、心の中で善意を思うだけでも、三つ全体を尽くせません。
同じ場所で暮らすと、言葉になる前の行いも相手へ届きます。人が使っている物を乱暴に動かしたり、共同の仕事をいつも同じ人に残したりすれば、丁寧な挨拶を添えても、その行いの影響は残ります。身の行いを含めて見ることで、和合を話し方だけの課題にしなくて済みます。
逆に、手伝いながら相手を見下す言葉を投げれば、助ける行いの中に別の痛みが入ります。三つを並べる意味は、こうした身・口・意のつながりからも考えられます。安居の共同生活を知る時にも、坐禅の時間のほかに、食事や作務の時間へ目を向ける手がかりになります。
ともにするのは、食事や部屋だけではない
残る二つは、戒と見です。経は、欠けや汚れがなく、聖者に称えられる戒を挙げます。さらに、苦しみを正しく尽くす、解脱へ向かう見を説きます。気が合うことや、同じ趣味を持つことまで話を広げているのではなく、仏道をともに歩むための基盤が示されています。
戒に関わるからといって、ここからすぐ、日本のどの寺院でも同じ生活規則だとは決められません。受ける戒や実際の修行制度は、宗派や修行の場に即して学ぶ部分です。六つの枠組みを知ることと、ある僧堂の規則を知ることには、それぞれ調べる先があります。
また、「見をともにする」を、誰か一人の感想へ全員が合わせることと読むと、経が示す解脱への方向が薄れてしまいます。何を教えとして学んでいるのか、どの点をまだ理解できていないのかを確かめることにも、学ぶ仲間の役割があります。三帰礼文の僧への帰依も、特定の人への服従だけに狭めず、実践する共同体へ向けた願いとして読めます。
争いが起きた時の道筋も、経にある
「周那経」は、他の教団で師の死後に争いが起こったと、沙弥の周那が阿難へ報告するところから始まります。阿難は、仏が亡くなった後に同じような争いが起きることを心配し、周那とともに仏へ話を聞きに行きます。和合を説く前に、共同体が壊れることへの具体的な不安があります。
経は、怒りや妬みなど、争いのもとを放置しないことを説いたうえで、七つの止諍の法を説明します。たとえば、自分の犯したことを隠さずに表し、再び行わないよう守る手続きがあります。当人が何を認めているかを、集まった僧が確かめる場面も描かれます。
二人の間で収まらない争いを、僧の集まりへ、さらに経や律をよく知る人のいる場へと持っていく道筋もあります。どちらが大声で押し切ったかで終わらず、法と律に沿って扱うための仕組みです。古い僧団の手続きを家庭や職場へそのまま当てはめることはできませんが、当事者だけに解決を任せきらないという点は目に留まります。
六慰労法は、争いを扱うこうした説明に続いて説かれています。不満が聞こえなくなれば和合が完成した、とだけ捉えると、経が詳しく述べた過ちへの対応や、共同で判断する過程を見落とします。
「敬」には、自分を低くする姿勢がある
後の大乗の論書、智顗の『法界次第初門』巻下之下は、「六和敬初門」で、外に向かって他とともに善を行うことを和、内に自ら謙虚であることを敬と説明します。ここでは同戒・同見・同行・身慈・口慈・意慈が並び、菩薩が人々と長く関わり、仏道へ導く文脈で説かれます。
「周那経」と並べ方や項目名は完全には一致しません。それでも、暮らしの行いと修行の方向、相手への慈しみを離さずに捉えていることが分かります。人とともに善を行いながら、自分だけが教える側だと思い上がらない。和に敬が添えられることで、共同の場にいる自分の態度も問われます。ともに学ぶ日に、用意した物が皆に届いているかを見て、困っていることは言葉にし、自分の理解に足りない点は尋ねる。そうした身近な場面から考えつつ、経が描く、戒と解脱をともにする僧団の姿も覚えておけます。
よくある質問
六和敬は、共同生活で口論をしないという意味ですか?
言葉の使い方に加え、身体や心の慈しみ、得たものを分けること、戒と教えをともにすることに関わります。中阿含経の周那経は、六慰労法とともに争いを収める手続きも説き、問題の扱い方まで示しています。
六和敬は、そのまま会社や家庭の規則にできますか?
もとの経は、戒を守り解脱へ向かう僧団の生活を説いています。身近な関わりを考える手がかりにはできますが、職場の制度や家族の権利を定める規則として、そのまま移すことはできません。