鑑真和上とは?失明してもなお海を渡った僧侶の物語
奈良の西ノ京に、唐招提寺という寺院があります。
金堂の太い柱、ゆるやかな屋根の曲線。その建築様式は日本の他の古寺とは少し違います。千二百年以上前の唐の建築の面影を、今に伝えているからです。本堂の奥に安置されている一体の坐像は、毎年限られた数日だけ公開されます。穏やかな表情の老僧。両目は軽く閉じられているのですが、それは瞑想しているのではありません。この方は、目が見えなかったのです。
鑑真和上。日本仏教に「正しい戒律」をもたらした唐の高僧です。六度の渡海に挑み、視力を失い、それでもなお海を渡ってこの国にやってきました。
奈良時代の日本仏教に鑑真が必要だった理由
八世紀の日本、奈良時代。仏教はすでに二百年以上の歴史を持ち、朝廷の庇護のもとで寺院が次々と建てられていました。経典の翻訳も進み、表面的には繁栄していました。しかし根本的な問題が一つありました。日本には正式な授戒の制度がなかったのです。
仏教において戒律は、僧侶が僧侶である法的な根拠です。出家するには、正統な戒律の伝承を持つ律師による授戒が必要で、「三師七証」(三人の主任師と七人の証人僧)を揃えた正式な儀式を経なければなりません。
当時の日本にはこの制度が整っていませんでした。多くの僧侶が「自誓受戒」、つまり自分で自分に戒を授けるという形を取っていたのです。結果として、兵役や課税を逃れるために出家を装う者が現れ、僧団の規律は乱れ、日本仏教全体の信頼が揺らいでいました。
事態を重く見た朝廷は、二人の僧侶を唐に派遣しました。栄叡と普照。彼らの使命は、日本に来て授戒してくれる律宗の大師を見つけることでした。
二人は唐で十年間、高僧を訪ね歩きました。返答はほとんど同じでした。「趣旨は理解できる。しかし海が危険すぎる。」揚州の大明寺で鑑真に出会うまで、引き受けてくれる人は一人もいませんでした。
鑑真和上の生涯:唐の律宗を極めた僧侶
東渡を決意する以前から、鑑真は漢伝仏教の律宗における最高峰の人物でした。
十四歳で揚州大雲寺に出家し、二十歳で長安と洛陽に遊学。当時最も声望のある律学の大師たちに師事し、南山律宗の法脈を完全に継承しました。揚州に戻ってからは大明寺の住持として四十年以上にわたって授戒を行い、門下で教えを受けた弟子は四万人にのぼります。当時の中国東南部のかなりの割合の僧侶が、直接または間接に鑑真の手から戒を受けていた計算になります。
弟子たちが渡航に反対したのも無理はありません。なぜ、すべてを手にしている人が、九死に一生の海路に命を賭けるのか。鑑真は弟子たちにこう言いました。「為是法事也、何惜身命(これは法のためのことである。どうして身命を惜しもうか)。」
鑑真の六度の渡海:十二年かけた東渡の記録
鑑真の東渡は「五回失敗して六回目に成功した」という一言では片づけられません。失敗するたびに、代償は大きくなっていきました。
第一回(743年)。準備万端、船も整えた。ところが出発直前に密告があり、一行の中に「海賊の嫌疑者」がいるとして官府に船を押さえられました。
第二回(744年)。出航直後に暴風雨に遭い、船は座礁。物資はすべて水に浸かり、上陸を余儀なくされました。
第三回(744年)。師の身を案じた弟子たちが、渡航計画を官府に通報。鑑真は「保護」の名目で阻止されました。
第四回(744年)。三たび出航するも、再び暴風雨。船は浙江の舟山群島まで流され、数か月の漂流の末にようやく救助されました。
第五回(748年)。最も過酷な航海でした。暴風雨に巻き込まれ、十四日間、海の上を漂流。船は海南島まで流されました。同行していた日本僧の栄叡は、この旅の途中で病死しました。鑑真自身も、長年の過酷な環境により両目の視力を失いました。
五度の失敗。十年の歳月。命を落とした者、去った者、諦めた者。そして鑑真自身も、光を失いました。
第六回(753年)。六十六歳、失明した鑑真は、日本の遣唐使船に乗り込みました。十二月、薩摩国(現在の鹿児島県)に到着。最初の決意から十二年が経っていました。
鑑真が日本に遺したもの:唐招提寺と戒律制度
鑑真が日本に来てからの仕事は、「授戒」だけにとどまりませんでした。
戒律制度の確立。東大寺に日本初の正式な戒壇を設置し、天皇・皇族・僧侶四百余名に授戒しました。これにより日本仏教は正式な出家制度を手に入れ、僧団の秩序が確立されました。
唐招提寺の建立。晩年、奈良に唐招提寺を建てました。戒律を専門に伝える道場として設計されたこの寺院は、金堂の建築様式に唐の面影を色濃く残しています。中国本土では戦乱によって唐代の建築がほぼ失われた中、この寺院は当時の建築美を今に伝える貴重な存在です。現在は世界文化遺産に登録されています。
医薬の伝来。鑑真は中国医薬にも通じており、多くの薬材と処方を持ち込みました。失明後は嗅覚で薬材を識別したと伝えられ、その正確さは驚くべきものだったと言います。日本では「医薬の祖」の一人として敬われています。
文化の伝播。仏法だけではありません。書道、彫刻技法、食品加工の技術も伝えました。豆腐の製法が日本に伝わったのは、鑑真の時代だとする説もあります。
鑑真和上の御影堂に安置されている坐像は、日本最古の肖像彫刻の一つで、国宝に指定されています。乾漆造りのその像は、穏やかな表情で、静かに座っています。毎年六月の数日間だけ、一般に公開されます。
その像の前に立つと、一つの問いが浮かびます。この人を十二年間動かし続けたものは、一体何だったのか。仏教では、自分のためではなく衆生のために行動する心を菩提心と呼びます。鑑真の十二年は、この菩提心がどれほどの力を持つかを示した実例です。そして、逆境の中で一歩も退かなかった姿勢は、六波羅蜜の「精進」という言葉の、最も具体的な姿だったのかもしれません。
千二百年の時を越えて、見えない目が今も、奈良のあの寺院を見守り続けています。
よくある質問
鑑真和上はなぜ日本に来たのですか?
当時の日本には仏教の経典や寺院はありましたが、正式な授戒の制度がありませんでした。僧侶の資格を正しく認定できる律師がいなかったのです。鑑真は唐で最も優れた律宗の大師であり、この問題を解決するために六度の渡航に挑みました。
唐招提寺は鑑真が建てたのですか?
はい。鑑真は来日後、まず東大寺に戒壇を設けて授戒を行いました。その後、新田部親王の旧邸を賜り、そこに戒律を専門に伝える道場として唐招提寺を建立しました。現在も奈良に残り、世界文化遺産に登録されています。