慚愧とは?「恥じる心」が仏道を支える理由

「慚愧に堪えない」という言葉を聞くと、深く頭を下げる人の姿を思い浮かべるかもしれません。仏教でも、過ちを恥じる心は大切にされます。ただ、落ち込む時間が長いほどよい、という話なのでしょうか。

慚愧には、自分の行いを恥じることと、悪い行いを止めることが結びついています。「ざんき」、また「ざんぎ」と読み、慙愧とも書きます。二つの字にどんな働きが説かれているのか、まず経典の場面から見てみます。

阿闍世王に「二つの白法」が語られる

北本『大般涅槃経』巻第十九には、父王を殺した阿闍世王が、自分の罪に苦しみ、病に伏せる物語があります。訪れた臣下たちは、王として国を治めるためなら罪はない、などと語ります。しかし、王自身は父を害したことを繰り返し述べます。そこへ来た耆婆は、王の行いをなかったことにしません。罪を犯したが、悔い、慚愧を抱いている点を受け止めます。そして、衆生を救う「二白法」として、慚と愧を挙げます。白法は、ここでは善い教え・働きのことです。

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この箇所は親鸞の『教行信証』にも引かれ、大谷大学の「きょうのことば」でも紹介されています。経に描かれる病は宗教的な物語の中のものであり、現代の病気の原因を、その人の罪や反省不足に結びつける説明には使えません。

自分がしないこと、人にさせないこと

経文は、慚と愧を一組の短い定義だけで済ませず、いくつかの方向から説明します。最初は、自分で罪を作らないことが慚、他人に作らせないことが愧、という組です。

自分の手を動かさなくても、人に命じたり、仕向けたりする関わり方はあります。たとえば、配布した資料の誤りに気づきながら、他の担当者に黙っているよう頼む。隠す役目を誰かに渡せば、自分の問題でなくなるわけではありません。『梵網経』の菩薩戒にも、自らの行為だけでなく、人への働きかけを問う条文があります。

次の組は、内に自ら恥じることと、人に向かって明らかにすることです。経文では「発露」と表現されます。心の中でまずいと思うだけで終わらず、過ちを覆い隠さないという方向が加わります。さらに、人に対して恥じることと、天に対して恥じることも挙げられます。

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天の前でも行いが問われるという、経の宗教的な世界もここにあります。現代の評判だけを気にする言葉に置き換えると、その広がりが失われます。誰も見ていなければ構わないのか、という問いを残すところです。

『成唯識論』では、善を尊ぶ心としても読む

『成唯識論』巻第六は、慚と愧を善の心所、つまり心の働きの中に置きます。慚は自分と法をよりどころにして賢者や善を尊び、愧は世間の力をよりどころにして暴悪を退けるものと説明します。両方に、悪行を止める働きがあります。

ここでは、してしまったことへの後悔だけでなく、何を尊び、何から離れようとするのかが問われています。兵藤一夫氏による大谷大学の用語解説も、この自分・法と世間の区別から慚愧を説明しています。『涅槃経』の三つの組と比べると、同じ二字をどう分析しているのかが見えてきます。

先ほどの資料なら、誤りを訂正する人の誠実さを大切に思い、自分も訂正を伝えようとする。これは本文を暮らしに引き寄せた例です。恥ずかしいから黙る、という反応だけが、慚愧という語のすべてではありません。

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懺悔との間に、一本の境界線を引けるか

慚愧は心の働き、懺悔は過ちを認めて悔い改めること、と分けると入口は分かりやすくなります。ただ、実際の経文では、二つは離れていません。先ほどの『涅槃経』も、過ちを作った後に懺悔する者と、作って覆い隠す者を対照させます。

発露し、悔い、慚愧して、再び同じ悪をしないという流れです。「申し訳なく思ったから、もう何もしなくてよい」とは読み終えられません。資料の誤りを知らせるなら、誰に何を伝え、どこを直すのかが、まだ残っています。

一方、訂正した後も相手が怒っているからといって、さらに自分を侮辱し続ければ誠意が証明される、ということでもありません。行為を改めることと、相手の気持ちがいつ変わるかは、同じ時計では動きません。空と因果を論じる『中論』を読むときも、行いの結果を消さずに考えることが大切になります。

人に恥をかかせる前に、自分の行いへ

慚愧を「恥を知れ」と他人へ投げつける言葉にすると、自分が省みるはずだった行いから、目が離れることがあります。『涅槃経』の耆婆が向き合ったのは、自分の罪に苦しむ王でした。人前で屈辱を与えれば、その人が善くなると説く場面ではありません。

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誰かを傷つけたことが分かったなら、その行為と影響を確かめます。まだ事実が不明なら、先に何が起きたのかを聞きます。恥ずかしく感じたという理由だけで、起きたことを全部自分の責任にする必要もありません。

過ちを隠さずに話すことは、私生活の細部を誰にでも公開することとは違います。訂正や対応に必要な相手へ、必要な事実を伝える。慚愧を日々の行いとして考えるなら、落ち込んだ深さを比べるより、ここから何を止め、何を伝え直すかを考えられます。

よくある質問

慚愧と懺悔は、同じ意味ですか?

重なる部分がありますが、慚愧は自分の過ちを恥じ、悪を避ける心の働きに重点があります。懺悔は、過ちを認めて明らかにし、悔い改めることです。涅槃経では、覆い隠すことと対照させながら、発露・懺悔・慚愧が結びつけて説かれます。

強く落ち込むほど、慚愧が深いのでしょうか?

落ち込みの強さだけで測ることはできません。経論が取り上げるのは、悪をしない、人にさせない、過ちを隠さないという方向です。自分の行為を確かめることと、自分の存在全体を否定することを分けて考えられます。

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