十如是を読む:「如是相」から始まる方便品の十の言葉
「如是相、如是性、如是体」。お勤めで同じ音が繰り返されるのを聞くと、一つずつ覚えるべき項目のように感じるかもしれません。
十如是(じゅうにょぜ)は、『法華経』方便品で、諸法実相を述べる際に並ぶ十の語です。相・性・体・力・作・因・縁・果・報、そして本末究竟等。「如是」は、それぞれに「このような」と添えられています。十個の別々な物を並べるというより、物事のあり方を、相互に関わる面から説く言葉として読めます。
十の語の前に「唯仏与仏」がある
方便品の本文で、仏はまず舎利弗に、仏の智慧は深く、容易には理解できないと告げます。そして、ただ仏と仏とが、諸法の真実のあり方を究め尽くす、と説きます。ここが「唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相」です。その直後に十如是が続きます。
十語は、仏が究める智慧の内容に関わります。経の後半では、仏がこの世に現れる目的として、衆生に仏の知見を開き、示し、悟らせ、入らせることが説かれます。難しいから誰も近づけないと終わる話ではありません。教えを聞く人を、仏の知見へ導く流れの中に置かれています。
天台寺門宗の星宮智光による解説は、十如是を朝夕の勤行で読む経文として紹介しています。唱える音を覚えたあと、その十語が前の「諸法実相」をどう受けるかに目を向けると、文章としてのつながりが見えてきます。
相・性・体から、力・作へ
経文自体は、十語の辞書的な説明を一つずつ付けていません。ここでは、天台大師智顗の教えを記した『法華玄義』巻二上の「通解」を手がかりにします。まず、相は外に表れて見分けられる姿、性は内にある性質、体はそのものを成り立たせる主たる質として説明されます。
「相」だけなら、外から見えるところへ目が向きます。「性」を続けることで、外からすぐ分かる姿だけでなく、そのものの内にある性質も考えます。「体」は、相や性を語っている、そのもの自体へ目を戻す語です。現代語の「性格」や「体型」を、そのまま当てはめる箇所ではありません。
次の力は、何かをなしうる力、作は実際に働きかけ、行為を営むことです。力があることと、その力を使って働くことを分けています。見える姿を述べるだけで終わらず、何ができ、どう動くのかへ進むために、この二語が続きます。
相・性・体と、力・作。それぞれの字を短い訳語に置き換えても、まだ意味がばらばらに感じられるかもしれません。同じ物事について、姿、内の性質、それを成り立たせるもの、可能な働き、実際の働きを尋ねている、と続けて読むと、前半の五語をつなげられます。
因と縁、果と報を分けて読む
『法華玄義』は、因を「習因」、縁を「助因」、果を「習果」、報を「報果」と説明します。最初の五語で見た物事を、今度は、何によって生じ、どのような結果に至るのかという関係から読むところです。
習因と習果には、行いが重なり、同じ種類の傾向が続くというつながりがあります。助因は、その生起を助ける条件です。同じ論が人・天の界を説明する箇所では、善い行為を因とし、それを助けるものを縁、自然に善い心が生じることを果、楽を受けることを報として語ります。仏教の業と果報を含む説明です。
こうして見ると、果と報は、同じ結果という日本語だけでは区別しにくくなります。行いの習いが続く面と、その行いによる報いを受ける面を分けているのです。「結果が出る前が果、出たあとが報」という単純な前後の区切りでもありません。
また、因だけで話を終わらせず、縁という助ける条件も挙げています。目の前の一つの出来事から、誰かの過去の行為や、その人の全体まで見通せると説いているわけではありません。同じ『法華玄義』には、凡夫の心で衆生を量ってはならない、という言葉もあります。十語を知ったことと、仏の知見を究めたことを取り違えずに読みます。
最後の「等」は、違いを消すのか
本末究竟等(ほんまつくきょうとう)は、最後に加わる一つの性質の名前ではありません。『法華玄義』では、初めの相を「本」、後の報を「末」として、その帰するところを説く言葉だと説明します。最初から九番目までを、ここでもう一度受け止めるのです。
同論は、この「等」を空・仮・中の三つの意味から読みます。初めも終わりも固定した実体ではないという空、初めと終わりが互いに関わり合うという仮、どちらも実相であるという中です。違いを捨てて全部同じにするだけでも、九項目を互いに無関係にすることでもありません。
空・仮・中は、三つの世界を順番に通過するという説明ではなく、同じ諸法を読む三つの面として示されます。性や相に違いがあることを認めながら、その違いを絶対に動かない実体として固めず、実相から切り離さない。十如是の最後には、こうした天台の読みが重なっています。
日蓮宗のお題目は経題を唱える言葉ですが、十如是は経文の一節です。また、自我偈が寿量品の仏の願いを語るのに対し、ここは方便品の諸法実相を述べる箇所です。お勤めの声が続いていても、それぞれの文章が語る内容を分けて学べます。
次に「如是本末究竟等」まで読んだら、相から報までへ目を戻してみます。姿だけでも、結果だけでも終わらない。内にある性質、働き、それを助ける条件も含めて読み、最後にその関係を問い直す。十語を一息に通り過ぎていた時には見えなかった、文章の組み立てが現れます。
よくある質問
十如是と如是我聞は、同じ意味ですか?
同じではありません。如是我聞は、教えを伝える側の「私はこのように聞いた」という語り出しです。十如是は、法華経の方便品で、諸法実相を述べる際に並ぶ十の語を指します。
十如是は、順番に起きる十段階ですか?
単純な時間順の十段階ではありません。相・性・体は物事のあり方を、力・作は働きを、因・縁・果・報は因果の関係を読む語です。最後の本末究竟等は、相から報までを貫く関係へ戻ります。