栄西とは?禅と茶を伝えた僧を、史料から知る

京都の建仁寺を訪れると、開山の栄西禅師は、禅を伝えた僧としても「茶祖」としても紹介されます。坐禅とお茶は、別々の功績なのでしょうか。その間には、宋で学んだ教えを日本に根づかせようとした、一人の僧の活動があります。

栄西は、臨済禅を日本へ伝えた僧であり、『興禅護国論』『喫茶養生記』などを著した人物です。「えいさい」として知られますが、建仁寺では「ようさい」と読みます。二つの書名を並べてみると、仏法を長く伝えることと、人の身体を養うことへの関心が見えてきます。

比叡山から宋へ、二度の海を渡る

建仁寺の紹介と年譜によれば、栄西は1141年に備中で生まれ、比叡山で天台と密教を学びました。最初の入宋は1168年、二度目は1187年です。二度目の旅で虚庵懐敞のもとに参じ、臨済宗黄龍派の禅を受け継いで1191年に帰国しました。

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最初の渡航から再渡航までには、二十年近い時間があります。一度海外で知識を得て、すぐ一つの宗派を完成させたという単純な経歴ではありません。帰国後にも、修学と活動が続いています。

栄西を知るときは、「新しい禅」と「古い天台」を、最初から互いに無関係なものとして分けない方が、その著作を読みやすくなります。『興禅護国論』にも、天台の教えを引いて禅を説明する箇所が数多くあります。

禅を説く書物が、なぜ戒律を重んじるのか

『興禅護国論』は、禅を興し、国を護るという題を持つ書です。その中には、禅の意義に疑問を投げかけ、それに答える問答が置かれています。禅をただ不思議な体験として語るのではなく、仏法の中でどう位置づけるかを論じています。

本文の戒律を論じる箇所では、戒律が仏法を長く存続させるものだと述べます。さらに、清らかな戒から禅定へ、禅定から智慧へというつながりを、経典や天台の文章によって示します。坐っている時間だけを切り取った禅ではありません。

続く問答は、戒を破った者が悔いた後に、再び禅を修められるかと尋ねます。答えでは懺悔と、悪を止めることが語られ、大悲が根本に置かれます。守れなかった人をただ排除して終わる話でもないのです。

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また、不立文字というなら経論を学ばなくてよいのか、という批判にも応じています。栄西は、外に律儀を保って非を防ぎ、内には慈悲をもって他者を利することを説きます。言葉を超えるという禅の表現を、行いの決まりを無視する理由にしない。この点は、公案を参究することを、奇抜な返答だけで説明できない理由ともつながります。

建仁寺は、初めから今の姿だったわけではない

建仁寺は1202年、源頼家の支援によって、栄西を開山として創立されました。当初は天台・密教・禅の三宗を兼学する道場でした。今ある「臨済宗建仁寺派の大本山」という紹介だけから、創立時も同じ制度だったと考えることはできません。

寺院には、教えを伝える僧、場を支える人、共同生活の決まりがあります。栄西が論書で禅の意義を説明したことと、実際に学ぶ場ができたことを合わせると、禅が日本で続いていくために必要だったものが見えます。日本の禅宗の歴史でも、その後に渡来した僧や、複数の系統の展開が続きます。

『喫茶養生記』の茶は、現代の健康商品ではない

もう一つの著作『喫茶養生記』は、茶を飲むことによる養生を説いた書です。冒頭から茶を高く讃え、当時の人々の身体や医療への問題意識を述べます。水野杏紀・平木康平による原文付きの訳注で、古い本文と注釈を照らして読めます。

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本文には、五臓と味、季節や方角などを関連づける説明があります。茶の苦味も、その対応関係の中で重視されます。現代の栄養成分を分析する報告書ではなく、当時の身体観や養生の知識をもとに、茶を勧めた文章です。

ここから、栄西が身体のあり方にも関心を向けていたことが読み取れます。禅を精神の内側だけの出来事と考えると、こうした著作は脇道に見えるかもしれません。しかし、僧も身体を持って暮らします。何を飲み、どう命を養うかという問いが、仏教を学ぶ人の書物に含まれています。

ただし、古い書物の効能の記述を、そのまま今の病気への治療法として勧めることはできません。歴史を読むときは、何が効くと書いてあるかだけでなく、どのような考え方によってそう説明しているかまでたどると、この書物の面白さに近づけます。

「茶祖」の前にも、後にも歴史がある

栄西以前に、日本に茶がなかったわけではありません。京都府茶業研究所の年表は、815年の飲茶の記録を挙げています。その後の栄西の活動は、すでにあった飲茶の歴史に、宋からの知識と新たな広がりを加えたものとして見られます。

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京都国立博物館の展覧会解説は、禅寺の生活規則に喫茶が関わることを説明し、建仁寺の四頭茶礼の道具や『喫茶養生記』断簡を紹介しています。教えを記した本だけでなく、茶碗や台、湯を注ぐ器にも、受け継がれた営みが残っています。

「禅を伝えた人」「茶を広めた人」という二つの見出しの間には、学ぶこと、書くこと、寺院を支えることがありました。戒と慈悲を論じる文章と、茶による養生を説く文章。その違いを保ちながら読むことで、栄西という僧の関心の広さを、具体的な言葉や物から知ることができます。

よくある質問

栄西が日本へ初めて茶を伝えたのですか?

日本には栄西以前にも飲茶の記録があります。栄西は宋の喫茶文化を伝え、茶を勧める書物を著すなどして、その広がりに関わった僧です。茶祖という敬称を、茶そのものの発明者という意味にはできません。

栄西は最初から臨済禅だけを学んだのですか?

比叡山で天台や密教を学び、入宋して臨済禅を受け継ぎました。建仁寺も創立時は天台・密教・禅を兼学する道場でした。現在の宗派名だけで、当時の修学を一つに区切れません。

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