日本人はなぜ無宗教と言いながらお盆もクリスマスもするのか
「あなたの宗教は何ですか?」
この質問をされたとき、多くの日本人が「特にないです」「無宗教です」と答えます。でも同じ人が、大晦日には除夜の鐘を聞き、正月には神社で初詣をし、2月にはバレンタイン、3月にはお彼岸でお墓参り、8月にはお盆で帰省し、10月にはハロウィン、12月にはクリスマスツリーを飾ってケーキを食べます。
外国の人から見ると、これは矛盾です。「信仰がない」と言いながら、年間を通して複数の宗教に関わる行事に参加している。しかし日本で暮らしている人にとっては、矛盾もなければ違和感もない。当たり前の日常です。
この「ずれ」はどこから来るのでしょうか。
「宗教」という言葉の問題
まず、前提を一つ明確にしておく必要があります。日本語の「宗教」という言葉と、英語の "religion" が指すものは、実は同じではありません。
英語圏で religion と言えば、一つの神を信じ、一つの教会に通い、一つの聖典に従い、他の宗教とは明確に区別する、という枠組みが前提になっています。一神教、とくにキリスト教やイスラム教の影響が強い文化圏では、「あなたの宗教は?」という質問は「どの神を信じていますか?」とほぼ同義です。
日本語の「宗教」にはこの前提がありません。日本で「宗教をやっている」と言うと、特定の宗教法人に入っている、教祖がいる団体に所属している、というニュアンスを伴うことが多い。だから「無宗教」と答える人は「どこにも入っていない」と言っているのであって、「何も信じていない」と言っているわけではないのです。
神仏習合の歴史が残したもの
日本で仏教と神道が共存しているのは、明治維新で神仏分離が行われるまで、千年以上にわたって神仏習合という状態が続いていたからです。
お寺の中に神社があり、神社の中にお堂がある。仏様と神様が同じ空間で祀られている。この状態を何百年も当たり前として暮らしてきた人たちにとって、「仏教か神道かどちらか一つ選んでください」という質問自体が不自然です。
クリスマスやハロウィンは明治以降に外来文化として入ってきたものですが、受け入れの構造は同じです。宗教的な意味を抜き取り、文化的なイベントとして楽しむ。このフィルタリング能力は、日本社会が長い歴史のなかで身につけたものだと言えます。
「行事」と「信仰」のあいだ
では、初詣で手を合わせている人は、本当に「信仰」しているのでしょうか。
ここで重要なのは、「信仰」の定義を柔らかくすることです。
一神教的な定義では、信仰とは特定の神に対する排他的な信頼と帰依を意味します。この定義を使えば、日本人の多くは確かに「信仰がない」と言えるかもしれません。
しかし、手を合わせるという行為の中に、感謝、畏敬、祈り、先祖への思い、漠然とした「何か大きなものへの敬意」が含まれているなら、それは信仰の一形態です。名前がついていないだけで、心は動いています。
仏教の視点から見ると、むしろ大切なのは行事の名前ではなく、その行為に込められている心の質です。形式的にお参りして何も感じていなければ、形だけの行事です。でも、たとえどの宗教の行事であっても、そこで一瞬でも自分の生を振り返ったり、亡くなった人のことを想ったりしたなら、その瞬間は修行と同じ性質を持っています。
仏教は一つだけを選べとは言わない
仏教はもともと排他性の薄い宗教です。
キリスト教の十戒に「わたしのほかに神があってはならない」という条文がありますが、仏教の五戒にはそれに相当するものがありません。仏教がたずねるのは「あなたは何を信じているか」ではなく、「あなたは何に苦しんでいるか」です。
お釈迦様は生涯を通じて、相手に合わせて教えの伝え方を変えました。これを「応機説法」と言います。全員に同じ信条を信じさせようとしたのではなく、その人の苦しみに最も効果的な方法で語りかけた。
この柔軟さが、日本における仏教の受容を可能にした大きな理由の一つです。仏教は日本に入ってきたとき、神道と喧嘩しませんでした(政治的な対立はありましたが、教義レベルでは共存可能だった)。だからこそ千年以上にわたって、「朝は神棚に、夕方は仏壇に」という生活が自然に成り立ったのです。
日本型宗教観の弱点
ただし、この柔軟さには弱点もあります。
すべてが文化行事として平らに扱われると、各宗教のもつ固有の知恵に深く触れる機会が減ります。お盆にお墓参りはするけれど、なぜお盆があるのか、お盆(盂蘭盆会)の意味や目連尊者の物語が何を語っているのかを知らない、という状態になりがちです。
クリスマスも同様です。ケーキとプレゼントは楽しいけれど、キリスト教がその日に何を祝っているのかは知らないまま。これは「多宗教的」というよりは「無宗教的」と言われても仕方がない面があります。
仏教の立場から見ると、行事を楽しむこと自体は否定しません。ただ、もしそこに少しでも自分の心を観る時間を入れることができたら、「なんとなく参加している行事」が「自分の生に触れる時間」に変わる可能性があります。
「何を信じるか」よりも「どう生きるか」
結局のところ、日本人の宗教観を一言で表すのは難しい。「無宗教」でもないし、「多宗教」でもない。どちらかというと「宗教という枠組みを意識しないまま、宗教的な行為を日常的にしている」という状態に近い。
仏教が問うているのは、あなたがどこの教団に属しているかでも、どの行事に参加しているかでもありません。あなたが日々の生活のなかで、自分の心とどう向き合っているかです。
初詣の列に並んでいるとき、鈴を鳴らして手を合わせるその2秒間、あなたの心に何が浮かんでいるか。それがすべて、とまでは言いませんが、少なくとも「無宗教です」という一言では片づけられない何かが、そこにはあるのではないでしょうか。
よくある質問
日本人が「無宗教」と答えるのは、本当に信仰がないという意味ですか?
多くの場合、特定の宗教団体に帰属していないという意味で「無宗教」と答えています。信仰がゼロだという意味ではありません。文化庁の宗教統計調査では、日本の宗教人口の合計は総人口を大幅に超えています。これは一人が複数の宗教と関わっていることを統計的に示しています。お盆にお墓参りに行き、正月に神社で手を合わせ、クリスマスにプレゼントを交換する人は、「信仰心がない」のではなく、信仰のかたちが一神教の定義と合わないだけです。
仏教はこの状況をどう見ていますか?
仏教はもともと排他的な信仰を要求する宗教ではありません。釈迦は「一つの教えだけを信じなさい」という形の教えを説きませんでした。仏教の核心は苦しみの原因を理解し、それを滅する道を歩むことにあり、この道は他の宗教の行事に参加することと矛盾しません。ただし、仏教の立場から言えば、行事の形式よりも、その行為に込められた心の質が重要です。