行基とは?大仏づくりと、池や橋を支えた僧
奈良の大仏の歴史にも、大阪のため池の歴史にも、行基という僧の名が出てきます。お寺の案内で「行基開創」と読むこともあるでしょう。一人でそれほど多くのものを造ったのか、気になる名前です。
行基(ぎょうき)は、奈良時代に人々へ仏教を伝え、池や橋の事業に関わり、東大寺の大仏造立では勧進を担った僧です。建造物の名前を一覧にするだけでは、人が集まって働いたことも、後に信仰が広がったことも見えにくくなります。
仏教を説く僧が、橋や池に関わる
『続日本紀』巻十七には、749年の行基の死に際し、生前の活動を振り返る記述があります。そこでは、仏教の論書を学び、都や地方を巡って人々を教化したことに続いて、弟子を率いて必要な場所に橋を造り、堤を築いたことが書かれています。
僧が教えを説くことと、人が渡る道や水を得る場所を整えることが、同じ生涯の中にあります。史書はさらに、見聞きした人々が作業に加わり、その利益を人々が受けていると伝えます。行基だけが工具を持って完成させた話ではありません。弟子や協力者がいて、使う人々がいました。
農業のための水を蓄える池や、川を越える橋は、日々の暮らしに関わります。行基を近代の土木技師という職業名だけで表すと、仏教を説いて人を導く活動とのつながりが抜けます。一方、奇跡で何でも造った人と見ると、史書にも書かれた共同の作業が隠れてしまいます。
狭山池では「造った」と「直した」が違う
大阪狭山市の歴史の説明は、狭山池の築造を616年ごろとしています。改修の際に見つかった樋管の木材を、年輪年代法で調べたことが手がかりになりました。行基が活動するより前に、すでに池があったのです。
同市の説明で、行基が狭山池を改修したとされるのは731年です。池のほとりには狭山池院と尼院も建てられました。「行基ゆかりの池」という言葉には、最初の築造だけでなく、古くなった施設を直す仕事も含まれています。
直すことは、新しく造ることより小さな仕事とは限りません。水をためる機能を保ち、人が使い続けられるようにするには、過去に造られたものを受け継ぐ必要があります。行基の名から池の歴史をたどると、その前にも後にも人の営みが続いていることが分かります。
同じ池は、鎌倉時代に重源によっても改修されました。行基の時代を、すべての完成点にすることはできません。今ある水面を一人の功績だけで説明するより、幾度も手を入れられた歴史として読む方が、この池が残った時間の長さに近づけます。
朝廷の記録には、批判と敬重の両方がある
行基は、最初から朝廷に一貫して称賛されていたわけではありません。『続日本紀』の717年の詔には、行基と弟子たちが街に集まり、人々を惑わせているという厳しい批判が記されています。僧尼の活動を一定の決まりの中に置こうとする、朝廷側の言葉です。
ところが、749年の記述では、教化や橋・池の仕事をたたえ、天皇から敬重されたこと、大僧正の位を授けられたことが語られます。同じ史書の中でも、時期によって評価が変わっています。この違いは、行基を「ただ反権力だった人」や「ただ国家のために働いた人」という一色に塗れない理由です。
初期の非難をそのまま行基の人格の判定にせず、後の称賛も当時の政治と仏教の関係の中で読む。そうすると、民衆の間で活動する僧と朝廷との距離が、長い年月のうちに変わったことが見えてきます。
大仏を造るために、人々の力を集める
東大寺の行基堂の説明は、行基が大仏造立の勧進を務めたことを伝えています。勧進は、仏事への協力や寄進を人々に勧める営みです。大きな仏像が完成するまでには、材料や費用だけでなく、人の力を集める働きも必要でした。
施しを受ける点では托鉢を連想するかもしれませんが、大仏造立への勧進と、僧が日々の食を受ける行は、目的や規模が異なります。どちらも一言で「お金集め」と呼ぶと、何を支えるための関わりなのかが分からなくなります。
東大寺で行基は、聖武天皇、菩提僊那、良弁とともに「四聖」の一人として敬われています。造立に関わる人々も、担った役割も一つではありません。行基の活動を知ることは、大仏という一体の像の背後に、人の関係が幾重にもあることを知ることでもあります。
「行基菩薩」と呼ばれ、後の時代にも残る
『続日本紀』にも、人々が行基を菩薩と呼んだことが記されています。実在の僧への敬称ですが、単に人気者という意味に収まりません。人を仏道へ導き、暮らしを支える行いが、宗教的な敬いの中で受けとめられていました。
その敬いは、行基が亡くなった後にも続きます。現在の東大寺行基堂に安置される坐像は、竹林寺の像をもとに江戸時代に造られたものです。後世の像からは、奈良時代の本人の姿だけでなく、その後の人々が行基をどう伝えようとしたかも見えてきます。二月堂の修二会をはじめとする法会とは別の形で、人々の敬いが堂や像に受け継がれています。
開創伝承を読む時に残しておきたい問い
各地の寺に残る「行基が開いた」という由来は、その土地の信仰の歴史です。ただし、一つの由来だけで、現存する堂や像を奈良時代の行基自身の仕事と決めることはできません。寺が始まった時期、行基の名が記録に現れる時期、建物が建て替えられた時期は、分けて確かめられます。
伝承を大切にすることと、史料や遺構を調べることは、両立します。狭山池に築造と修繕の違いがあるように、寺にもいくつもの時代が重なっています。行基の名を入口にたどりたいのは、偉人が一人で成し遂げた件数だけでなく、その仕事を支え、後へ渡した人々の歴史です。
よくある質問
行基が狭山池を初めて造ったのですか?
大阪狭山市の説明では、狭山池は616年ごろに築かれ、行基は731年に改修に関わっています。初めて造ることと、既存の池を直して使える状態にすることは、分けて捉えます。
行基菩薩は、実在した人の名前ですか?
行基は奈良時代に活動した実在の僧です。古い史書にも、人々から行基菩薩と呼ばれたことが記されています。菩薩という呼び名には、人々を導き支えた僧への宗教的な敬いがあります。
行基開創と伝えるお寺は、すべて本人が建てたのですか?
個々の寺院について、伝承と史料や遺構を確かめる必要があります。開創の由来が伝わっていることと、本人の活動を当時の記録で確認できることは同じではありません。