不放逸を学ぶ、精進との違いから見る心の働き
不放逸(ふほういつ)は、悪に流されることを防ぎ、善を修める心の働きです。仏教書でこの語に出会っても、「いつも気を張る」「一日も休まない」と読むと、何を大切にする教えなのかが見えにくくなります。
予定を詰めて熱心に活動していても、誰かへの敵意を育てていることはあります。反対に、いったん手を止めて、自分の言動が人を傷つけていないか考える時間もあります。活動量だけでは捉えきれない違いを、『成唯識論』の説明から読んでみます。
精進は、何に向けて励むのか
『成唯識論』巻六は、心に伴って働く「心所」を整理する中で、善の心所を十一挙げます。その中に、精進にあたる「勤」と、不放逸が別々に出てきます。二つを同じ欄にまとめず、それぞれの働きを論じているのです。
精進の説明には、善を修め、悪を断つことへ勇んで取り組む、という方向が示されます。この論での精進を考えるには、熱意の強さとともに、何へ向かっているかを見る必要があります。相手を困らせる方法を懸命に探す行為に、多くの時間を使っても、それで善の精進になるわけではありません。
巻六の後のほうでは、煩悩に染まった事柄に熱心に励む場合も、善を退けるので懈怠と呼ぶ、とまで説きます。ここでの懈怠は、外から見えるのんびりした態度だけを指してはいません。善に向かう働きが失われていることが、問題になっています。
不放逸を支える四つの働き
不放逸の定義は、精進と「三根」が、断つべきものと修めるべきものに対して、防ぎ、修めることにあります。三根とは、無貪・無瞋・無痴という三つの善根です。精進と三善根を合わせた四つの働きが、防悪修善の側から捉えられています。
無貪は、存在やそれを支えるものに執着しない働きです。無瞋は、苦しみや苦しみのもとに対して、憎しみを起こさない働き。無痴は、物事や道理を明らかに理解する働きとして説かれます。いずれも、貪り・怒り・愚かさに対して、善を生む根となるものです。
たとえば、寺の読書会を手伝うとします。参加者が学べるよう準備を進める一方で、手柄を独占しようとしない。別の案が出ても、提案した人への憎しみに話をすり替えない。分からない内容は確認してから案内する。これは古論そのものの例ではありませんが、熱心さに加えて、三善根の方向を考える手がかりになります。
論はさらに、不放逸には、この四つを離れた別の実体があるわけではない、と説明します。心の中に、四つを監視する第五の係がいると考えるより、四つの働きが悪を防ぎ善を育てるあり方に、不放逸という名を立てていると読むと理解しやすいでしょう。
注意しているだけで、十分でしょうか
同じ箇所には、不放逸の働きを別に立てようとする見方への、細かな問い直しがあります。忘れないようにすることなら「念」、散乱しないようにすることなら「等持」にあたる、と論じます。覚えていること、集中すること、防悪修善に働くことは、それぞれ区別されます。
この区別は、生活の中でも役立ちます。相手に言い返すため、以前言われたことを一つ残らず覚えている。準備に集中しながら、仲間を排除する計画を進める。記憶や集中が働いていても、それだけで不放逸とは言えません。注意を向ける先と、その注意によって育っているものが問われます。
防ぐことと、育てることを一緒に
「防悪」という言葉だけが残ると、自分の失敗を探し続けるような読み方になりがちです。原文では、善を修めることも並んでいます。悪い行為を控える面と、善い行為を進める面の両方が、不放逸の説明を成り立たせています。
先ほどの読書会なら、相手を侮る言い方を控えるだけで終わらず、意見を確かめる機会を作ることも考えられます。誤解を解くために必要な箇所を一緒に読む、担当を引き受ける前にできる範囲を伝える。実際に何を変えるかが定まると、反省にも行き先ができます。
自分の過ちを恥じる心の働きは、慚愧の説明につながります。『成唯識論』では、慚愧も不放逸も善の心所に含まれますが、定義は同一ではありません。過ちを軽く扱わないことに加え、その場で悪を止め、善を行う働きまで見ていくのが、この言葉を学ぶ面白さです。
放逸だった過去の、その先へ
漢訳『法句経』巻上の放逸品は、戒を守り、道を念じ、放逸を離れることを厳しく勧めます。その後半には、以前は放逸でも、後に自らを制する人は世間を照らす、という言葉があります。さらに、以前は悪をしても、後に止めて犯さない人を、雲の晴れた月にたとえます。
叱責だけで閉じる章ではないのです。昔の振る舞いを根拠に、その人の行く先をすべて決めてしまう読み方とは、違う余地があります。悪を止めること、善へ向きを変えることが、後半の光の比喩を支えています。
『仏遺教経』の精進の教えが継続して道を修める姿を示すのに対し、今回読んだ定義は、今の熱心さに何が伴っているかを問い直します。何時間がんばったかを数える前に、貪りや敵意を増やしていないか、何を善い方向へ進められるか。その問いを、目の前の一つの行為に戻してみることができます。
よくある質問
不放逸と精進は、同じ意味ですか?
成唯識論では、精進は悪を断ち善を修めることへ勇んで取り組む働きです。不放逸は、その精進と無貪・無瞋・無痴がともに働き、悪を防ぎ善を修める面から説明されます。深く関係しますが、注目する働きが違います。
以前に放逸だった人は、もう仏道を歩めませんか?
漢訳の法句経・放逸品には、以前は放逸でも、後に自らを制する人をたたえる言葉があります。過去の行為を消すという意味ではありませんが、その後に悪を止め、善へ向かう余地を説いています。