日常生活の中での修行:日々の暮らしの中で道を成す
道場はいずこに
ある禅師が問われました。「師よ、私には家庭があり、仕事があり、離れることができません。どうすれば修行できるでしょうか?」
禅師は問い返しました。「あなたはご飯を食べますか? 寝ますか? 話をしますか?」
「すべてします。」
禅師は言いました。「それなら、あなたには修行の機会があります。」
私たちはしばしば、修行とは特別なことであり、特別な環境が必要だと誤解しています。しかし、釈迦牟尼仏が成道された後、教化された多くの人々は在家者でした。維摩居士(ゆいまこじ)は商人であり、龐蘊(ほううん)居士の一家は皆在家でしたが、悟りを開いていました。「水を運び薪を割る、これすなわち道なり。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、これみな道場なり。」
日常生活こそが最高の修行道場です。なぜなら、そこには真実の試練があるからです。洞窟で座禅をしていて腹が立たないのは、誰もあなたを怒らせないからです。しかし家に帰り、配偶者の一言で怒りが爆発する――これは瞋(いかり)の心がまだあることを示しています。修行とは境界(環境や状況)から逃げることではなく、境界の中で心を転化することなのです。
食事の修行
食事は最も日常的なことです。仏門には「五観の偈(ごかんのげ)」という教えがあります。 一には功の多少を計り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る(食物がここに来るまでの労力と恩恵に感謝する)。 二には己が徳行(とくぎょう)の全欠(ぜんけつ)を忖(はか)って供(く)に応ず(自分の徳行を反省し、供養を受けるに値するか考える)。 三には心を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす(貪りや嫌悪の心を防ぐ)。 四には正(まさ)に良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり(食物を生命維持のための良薬とし、快楽のためとしない)。 五には道業(どうぎょう)を成(じょう)ぜんが為に当(まさ)に此の食(じき)を受くべし(修行を成就するためにこの食事をいただく)。
毎回完全に観想する必要はありませんが、簡単な感謝の一念を持つだけで、その食事は異なる意味を持ちます。
さらに重要なのは、専心して食べることです。現代人は食べながらスマホを見たりして、何を食べたか味も分からず、心も養われません。スマホを置き、味わうことに集中し、よく噛んで食べる。これ自体が禅定――「今、ここ」に生きる禅の修行なのです。ある禅師は食事の際、「私は今、食事をしている」とだけ思うように教えました。シンプルですが、深い教えです。
仕事の中での修行
仕事は生活の大きな割合を占めます。もし仕事と修行が対立するなら、毎日八時間も修行できないことになり、あまりに惜しいことです。
布施と貢献――仕事そのものが「無畏施(むいせ)」となり得ます。自分の技能を用いて社会に奉仕するのです。
忍辱(にんにく)の道――上司の叱責、同僚の誤解、顧客の無理難題は、すべて忍辱を修める機会です。怒りがこみ上げた時、爆発させずに選択できる「間(ま)」を見つけること、それが修行の成果です。
精進(しょうじん)の工夫――真面目に責任を持ち、いい加減にしないこと、それが精進です。この態度は修行にも通じます。
執着しないこと――全力を尽くしますが、結果に過度に執着しません。『金剛経』に「応無所住而生其心(まさに住する所無くして、その心を生ずべし)」とあります。「住する所無し」とは執着しないこと、「その心を生ず」とは積極的に事を行うこと。この二つは矛盾しません。執着しない心で事を行えば、かえって軽やかで智慧に満ちたものになります。
家庭での修行
家族はあまりに身近で、私たちはその前で本性をさらけ出しやすく、また最も煩悩を起こしやすい相手です。だからこそ、家庭は最もリアルな道場なのです。
配偶者に対して――言葉遣いに気をつけ、穏やかに話し、批判よりも肯定を多くします。関係を傷つけるのは往々にして大事ではなく、日常の態度の積み重ねです。配偶者もまた煩悩や限界を持つ一人の衆生であると理解すれば、包容力も生まれやすくなります。
両親への孝行――仏経典は、父母の恩は天よりも高く地よりも厚いと説きます。孝行とは物質的な供養だけでなく、精神的な寄り添いです。実家に顔を出し、話を聞き、心身を気遣い、彼らの考えを尊重することです。
子供の養育――支配ではなく愛をもって接し、独立した人格を尊重し、過ちを犯しても激怒せずに教え導く。これこそが慈悲と忍耐の修行です。
人間関係における四摂法(ししょうぼう)
四摂法とは、菩薩が衆生を導く四つの方法です。布施(関心を与える)、愛語(優しい言葉)、利行(他人のためになることをする)、同事(相手の立場に立つ)。
最も難しいのは、不快な相手と向き合う時です。しかし、彼らは私たちの執着を見せてくれる存在であり、私たちを「度(ど)」しに来てくれたのです。彼らを「逆増上縁(ぎゃくぞうじょうえん:逆境という成長の縁)」と見なし、忍辱と慈悲を練習すれば、心の器は自然と広がります。もちろん、自分を守り境界線を引くことも必要ですが、瞋(いかり)の心を起こさず、感情ではなく智慧で処理するのです。
行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の修行
歩く時は正念(マインドフルネス)を保ち、足と地面の接触を感じます。座る時は姿勢を正します。姿勢は心に影響します。寝る前には一日を振り返ります――言い過ぎたことはないか? 間違ったことはないか? 悪い考えを起こさなかったか? あれば懺悔し、なければ随喜(善行を喜ぶ)し、そして安らかに眠ります。
「生活禅」とは、禅の精神を細部に溶け込ませることです。皿を洗う時はただ皿を洗い、掃除をする時はただ掃除をする。すべての動作に気づきと集中を伴わせるのです。
逆境の修行
逆境は私たちに「苦諦(くたい)」を深く体感させます。平穏な時は気づきませんが、困難が来て初めて、世間の快楽がいかに脆いかを知ります。
逆境は因果を反省させます。今の困難はどこから来たのか? 今生か、過去世か? 因果を受け入れれば、天を恨まず、注意を「今」に向けられます――私は何ができるか? どのような善因を植えられるか?
過去の業(カルマ)は報いを受けねばなりません。今生の苦しみは「借金を返している」のかもしれません。そう思えば、苦しみを受ける時も心はそれほど苦しくありません。
逆境はさらに修行の触媒となります。順境にある人は怠けやすく、逆境にある人は厭離(おんり)と出離(しゅつり)の心を起こしやすいのです。多くの人が仏教を学ぶきっかけは、人生の大きな変事でした。一見悪いことに見えても、それは最大善事となり得るのです。
生活から解脱へ
解脱は一足飛びにできるものではなく、漸進的なプロセスです。まず善き人になり、次に修行者になります。家庭や仕事で煩悩を調伏できて初めて、より高い境地を語れます。
真の解脱とは生活を離れることではなく、生活の中で自由を得ることです。解脱した人も食事をし、働き、人と交わりますが、心は自由で、縛られていません。この自由は生活の中で練り上げられるものであり、洞窟の中で空想するものではありません。
維摩居士は繁華街に住んでいましたが、その悟りは多くの出家者より高いものでした。彼は言いました。「譬えば高原の陸地には蓮華を生ぜず、卑湿の淤泥(おでい)に乃(いま)し此の華を生ず。」蓮の花が泥の中に咲くように、智慧と解脱も煩悩の泥の中で咲くのであり、真空中にあるのではありません。
条件の整った専修者を羨む必要はありません。あなたの生活こそが道場であり、家族や同僚は師であり、順逆すべての出来事が教材です。
気づきを持って生活し、慈悲を持って人に接し、智慧を持って事を処する。来る日も来る日も続ければ、心はますます清らかになり、智慧は増長します。機が熟せば、解脱は自然と成るでしょう。
この道は特別易しくもありませんが、特別難しくもありません。必要なのは願う心と、毎日の少しずつの努力だけです。
柴米油塩(生活の糧)、行住坐臥、すべてが修行なのです。